あたしの居る場所と居場所は異なる:Where I am and my own place are different

こういう地域にあたしは住んでいる。多趣味だった我が夫オリンの、その一つは知る人ぞ知る『コミック狂』。先日、ノストランド通りにこの様なコミック・ストアを発見!「おーい、あんたの好きなコミック店見つけたよー」と小声を出す。看板には堂々と、”Brooklyn’s #1 Hobby Store ” って書かれてる。オリンと一緒に大笑いしたかもね。こんな場所にあたしは居る。

I live in an area like this. My husband Orin has many hobbies, one of which is known to those in the know as “comic fanatic”. The other day, I found a comic store on Nostrand Street! “Hey, I found your favorite store!” I whispered. The sign proudly says “Brooklyn’s #1 Hobby Store”. You might have had a good laugh with Orin. I live in a place like this.

(分かっているけれど)あたしの身体のえぐり取られた内臓のあった部位がまだ血を吹いている、依然として止まらない。人はこの容態を”涙を流して泣いている” と言う。毎日、赦しと感謝と愛を唱えている。それがあたしの居場所。

(I know) the part of my body where the internal organs were gouged out is still bleeding, and it still won’t stop. People refer to this condition as “crying with tears”. Every day I chant forgiveness, gratitude and love. That’s where my own place.

Grief Care/失った悲しみを癒し、乗り越えるプロセス。死別のショック・喪失感から再生してゆくのは配偶者を失った場合、平均1〜2年 (場合によっては4年とか )。この期間に、身体的・心理的・行動的・認知的反応が当然起こる。悲嘆の表現として現れる感情や行動を正常なものとして、ともに受け止める(STORY から抜粋)。 あたしはこの流れでゆけば、淡々と癒しのプロセスなのだろうか。泣いて良いんだね、皆、大切な人と死別して初めて『生きることと死ぬこと』に向かい合うのだろう。

ひたすら有難うございます、皆さん!の日々。4月14日はオリンの49日でした:The days of Thank you very much for Everyone! 14 April was the 49th days of Orin.

私もオリンも果報者に五重丸です。ありがたいです。有り難すぎるので、どうにかなっちゃいそう。何故こうも、皆優しくて親身になって下さって助けてくださるのだろう。ありがとう御座います。本当にどうもありがとうございます。

Both Orin and I are “(Lucky Fellow) x 5 “. Thank you. I’m too grateful, so it feels like I should be able to tranceformation to something else. I wonder why everyone is so kind and helpful to me. Love, Love , and Love. Thank you. Thank you so very much.

Strawberry Fields FOREVER

彼のゆかりの地、セントラルパークとメトロポリタン美術館付近とストロベリーフィールドに少し遺灰を撒いてきました。次は海に行こうっと。

I (and Mica) have scattered some of his ashes in his heartland, Central Park, near the Metropolitan Museum of Art, and Strawberry Fields. Let me go to the sea and scattered a bit more of his ashes next time.

皆さんに助けて頂き、オリンの機材・画材・楽器はそれぞれに向かった。オリンも安心しただろうな : With everyone’s help, Orin’s equipments, painting materials, and musical instruments went to their respective places. Orin would be relieved.

何となくなのだけど、あたしが後に残ってこれで良かったんじゃないかと思える。理想は同時に一緒に逝きたかったなあ。まだニューバーグにいた頃、ショッピングに出るより他、オリンは運転すらきつくなっていた。その度に吐いていた。。あゝ、あたしの好きなホンタン(ホンダのタンカラーゆえこのように呼んでいた)に乗って、オリンと3人で消滅っていうか、違う次元に向かいたいなあなどとぼんやり思ったりもしたっけ。

オリンが残ったら、その日からお手上げですよね。もう、コンピューターを組み立てようが、何を食べようが、婆やは居ない。。泣くより辛い孤独。。。何か、オリンの一人取り残された様子を見てしまったかのような錯覚。これでよかったんだ。丸投げされた怒りもあるけど、私は全責任を負う。片っ端から物を処分してゆく(欲しい人にはどんどん譲った、使ってもらえるのが物にとっても一番嬉しい)。

これでオリンの分身が減ってゆき、同時に彼の本当の姿が垣間見て取れる。怖いけど、、、この人には元から実体はなかったのかしらね?この人の細胞の隅々まで、電磁気のようなものの周波数が食い込んでいたんではないかしら? 物、もの、そして物たち、、、と言って肌身離さず抱え込んではいたものの執着とは違う、『物・物質に己を記憶させる』彼はきっと物質界とその波動の中間地点、に位置した霊媒体質じゃなかったか? 多才過ぎたよね、音楽、アート、写真、ビデオ、付随してあらゆる機器を縦横無尽に操作する。。彼のウエッブサイトの中で私の好きなページ  <ーーークリック

ホンタンはすでに安全な場所に移し、買い手を待っている。。オリンは今は異なる次元のトラベラー。あたしは、ニューヨークで泣いている。でも一歩外に出て、メインのフラットブッシュ通りを歩くと違う涙に溢れる。あたしの故郷に戻ってきた。アフリカンアメリカンの古いメッカ、笑っちゃうような舞台衣装を自慢げに並べているショーウインドウ。古い商店街が軒を連ね、いささかキザでレトロなミュージックホールだか、かつては映画館(?)かなあ。遠い昔の喧騒がふっとイメージされる。

ハーレムでも無い、ベドフォード・スタイヴサントのように開発の進みすぎる一帯でもない、忘れられてもいない、ただ見えない郷愁に守られているかのように、邪魔者を優しく拒んでいる。古めかしくもお伽の国とは違う、でもそうとしか形容できない古い景勝の建造物。きっと、この通りをビデオに収めなきゃあ。夏は、一人っきりだけど海にもゆこう。

拍車をかけて片付いてゆく部屋。まるまる空く一部屋はお客さん用と瞑想部屋を兼ねるかな。でもいつまでいるかわからない、もっと身軽にして荷物を処分して、静かに自然の中にゆこうかしら。今、結論は出さない、まず自分を取り戻すのが先決。

2月末から3月半ばの整頓されてない状態です : These pictures are in an unorganized state from the end of February to the middle of March.

よくある話だけど、オリンにまつわる4つの予知夢、今は私の大好きなエレガントな蜘蛛になってキッチンに居る : As is often the case, four prophetic dreams involving Orin. He is now seems to have turned into a spider and appeared before my eyes in the kitchen.

1、ずいぶん高めのプラットホームのような場所にオリンと居る。何かおしゃべりしてたかな?ひょいと振り返ると彼がいない。大慌てで周りを探し、思わず目を下にやると、なんと!この高みから(恐らくは)転げ落ちたのか、はるか下方、背を丸め動かないオリンを発見した!(驚くのだが、この夢はとても鮮明ではあるけれど、彼が肺がんステージ4の宣告を受けるより何年も前のことであり、目覚めてから一瞬不吉な思いをしたのは事実)

2、二人で真っ暗な道?を歩いている、どこからともなく霧が四方八方から発生し、二人ともどうして良いかわからない、すると、光を放つ古めかしいランタンのようものを掲げた老人が霧の中から現れて、私たちに道しるべをしてくれた。(ユングの説く、老賢者そのもの)とても安心したのを覚えている。(治療中ではあったが、まだ彼が元気だった頃の夢)

3、どっさりの人々が皆、バス?に乗って居る。多分、何かに向かう途中。程なく乗り物は止まり(サービスエリアっぽい)それぞれが外に出たり伸びをしたり。さて再びバス?が出発するのだが、どうしたことかオリンは私たちのバスに乗ろうとしない、私が早く早くと大声をかけても、聞こえているのかいないのか、自分は残る、皆と一緒にゆかないというような?或いは、彼自身どうして良いのかわからない、が、乗る気持ちは無い、といった意思表示をしている。私は、バスから飛び降りて彼を引っ張りたいのだが、どうにもバス・乗り物から降りられず非常に困惑して目が覚めた。(夢の中の彼は、本当に淡々としており、同時に、何で僕はここにいるの?どうしようかなあ〜、といった表情を見せてもいたかな。もちろん、落ち付いていたし周囲をキョロキョロ見てもいた。一言で言えば、彼自身がどの方向にゆくべきか思案していたかのような??)

4、ヒョイっと見ると、前方に、ニコニコ微笑んでいるオリンがいた。いつものお気に入り?の赤いトレーナーを着て明るい表情だった。本当に彼らしく爽やかで、いかにも本物のオリン!と思い、夢の中でもとっても嬉しかった。(これが彼の生前に現れた最後の夢)

ところで、色々な人から”蝶々” の話を聞く。殊に亡くなった方が蝶になって飛び交った、どこからともなく蝶々が舞ってきた、などなど。わたしも”蝶”に関しての実に素晴らしい夢を幼少期に見ており、それは次回記そうと思う。わたしで言えば、彼が旅立って以来、蜘蛛とカラス、樹木や草花、それにあらゆる鳥たちがいつもわたしの周囲にありとても和む。

〜〜、先日、外出から戻って何とは無しにキッチンのコーナーに目が移った。食器を洗うブラシ立ての後ろに、なんと!どう考えても以前、オリンが他界して間も無く見たのと同じ素晴らしくエレガントな蜘蛛(多分、どこにでもいる何ら変哲のないハウス・スパイダーなんだけど)が、ちゃっかりくつろいでいる(微笑)。オリンだ、オリンだ!ありがとね。(その後、この子は私の部屋に向かうちょっとしたコーナーの天井に移動しており、スルスルっと私の足元に降りてきた!!!そっとしてあげたかったのでまだゴタゴタしている玄関際の部屋に連れて行きました。)

わたしはなぜか生まれて以来、蛇と蜘蛛とカラスがとても身近で大好きでならない。ただ一言、可愛いのだ。もちろん、あらゆる生き物を尊敬し大好きなのではあるけど、わたし自身の優先順位に拠れば、どうしたって彼らが先になる。人、或いはミソロジーではシンボリックな意味で彼らを善悪で語るし、加えてロジカルな意味では、巣を張る蜘蛛は女の子なんですが、まあ、それはそれ。

遺灰を受け取った時、”ニューヨークに死す”というフレーズが浮かんだ。巡りめぐって、オリンはあたしとともに戻ってきた:When I received the ashes, the phrase “die in New York” came to my mind. Going round and round, Orin came back here with me

家族以上に親身になってくださるC.Cさんの車で、3月11日、スタッテン島にオリンの遺灰を受け取りに出かけた。前夜は随分と雨が降っていたが、翌朝は曇って冷んやりしているものの雪注意予報も何処へやらありがたき出発。         

出がけのドライブウエイで、お隣の屋根の上に大きなカラスが止まっており、私に向かってカーカーずーっとしゃべっている。ので、あたしもお返事する。はっと気付いた!あたしは、殊にカラスと蜘蛛と蛇がどうしたことか生まれて以来大好き。おととい、寝ぼけてトイレにゆこうと壁に何気なく目をやると、なんとも可愛らしい(多分、冬眠中を起こされたような)ちょいと大きなクモが壁を伝い歩きしていたのね。これって、多分だけれど、オリンがいち早くあたしとコミュニケーション取りたくて、このように見せているんではないかしら?

そうだ、先日、クイーンズに用事があって早く地下鉄に乗ったのに、電気系統の不都合か何かしら発生。で皆一斉に下され、一旦来た方向、つまりはマンハッタンに戻って何何番線に乗り換えてください、とのアナウンス。それを私は何度か行ったり来たりミス往復してしまい(お目当の駅に向かって行くも、地下鉄や私鉄そのものがスケジュールを変えていたり)高架線に変わったクイーンズはロングアイランドシティの町並みを何度も見る羽目に。ちょっと待てよ?

私がオリンと知り合った頃、彼はまさにこのロングアイランドシティにオフィスがあり、眼下の光景は様変わりしているものの懐かしくもあった。いや、やっぱり変だ。どうも、、、オリンが私にウオークインして、私の眼球を使ってこの光景を見てるんではないかしら、という不思議な気持ちになった。

オリンが、直感を与えてくれるミューズに早変わりしちゃったのか?皆に持ってってもらおう、さもなくば捨ててしまおうと決めていたゴチャゴチャの箱の中に、彼の愛用カメラが隠れていたり、わけわからなくなっていたとても重たい三脚類に混ざって、ラップスティール(楽器)をヒョイと見つけたり、ギブアップしていたラジオをひょんな思いつきでリカバー。(つまり、いかに接続させるか、のような)ちゃっかり冷蔵庫の上に置いて見た途端、そうだ!生前のオリンに、『私、台所にラジオを置きたい。なんかノスタルジックで良くない?古いメロディやボーカル、ビッグバンドジャズ聴きながら美味しいもの作りたいんだ』などといったよね。ほら!あたし一人で設営できたじゃない?

号泣と慟哭が発作的にやってくる。私の魂はもうオリンの帰還、3次元じゃないところ、重力の関与せぬ次元、と同時にホログラフィカルな階層に行ってしまったのをわかっているのに、私の頭の中の記憶と日常回路が激しく反応しているんだね。居る・居ない、という相反する現象そのものが私たち3次元界の決まりなのね。物質を伴った生き物がいた・居なくなった、というカラクリに翻弄されるのね。

でも、一緒に居たから学べたし、居なくなったから、それに気付けたのよね。

目前に迫るメモリアルの準備、写真を選ぶことすら明日に伸ばしてしまう。たくさんのありがたきお友達が前日それに当日のお手伝いをしてくださる。あたしは、とてもじゃないがポーカーフェイスを貫けないのはわかっている、から後ろに引っ込んで飲み物担当の婆やをやろうっと。これならメソメソしてもさほど迷惑ではなかろう?

遺灰を1/5 ほどの小分けにして、こちらをメモリアルに持ってゆく。父親譲りの古いドイツ製の大ジョッキに入れてゆく。だってそれが爺やの希望なんだよ。オリンは過度に規則に忠実な部分と、引き継がれる伝統や形式を避ける部分、この二つをきっちり線引きしていた。ので、メモリアルは楽しく自由に来ていただき、笑いと音楽で締めくくりましょうっと。ところで、毎日オリンに『そちら側の様子をおしらせくださいよ』とテレパシーを送っているのだけど具体的な返答を得ていない。『あたしの母にも会ってね、誰それもね、プリンスもだよ。そうだ!あんたのお母さんに会えた?』きっと、苦笑しているのやら身体が無いので電磁波的反応で返しているのやら?毎朝毎晩、般若心経を唱えております。

引っ越した日のことは書いておきたい。

〜〜, 2023年、2月18日。ニューバーグにはちょうど3年と3ヶ月住んだ。お手伝いくださったFさん、ムーバーのお二方、ニューバーグの大家のAさんと弟のJ さん、不動産業を営むAさんの妹夫妻のEさんとMさん。ブルックリンでの積み下ろしは同じく二人のムーバーさん、手伝ってくれたRさんとその友人のCさん、大家のYさん。我が家の中古車には、オリンのギターとベース、電子ピアノ、プラント、重要書類のバッグ、これらをぎっしり詰め込んで一路、ニューヨークに戻って参りました。ゴムの木トミーや大きくなったアボカド、それこれはニューバーグに置いてきた。半地下に移るので、日の当たる場所に留まってもらう方が彼らには幸いするものね。

オリンは衰弱している身体の置きどころもなく、ムーバーさんたちが運び出す様子を備え付けのキッチンテーブルと、置いてゆく椅子にもたれ黙って見守っている。失礼だけど、ムーバーさんの要領が悪い、、しびれを切らして私も動く。どうも、このムーバーさんの親方が、アシスタントで選んだ人を間違えたものか、結局は親方一人でやり終えたようなもの、、、話が違う、こんなに荷物があるなんて!しかも重いものばっかりじゃ無いか、俺の連れてきた助っ人は仕事できないし、などなど文句の言われっぱなし。

親方の言い値プラス色をつけてお支払い完了。私もオリンも今回はお手上げだったので本当に助かりました。夕暮れ迫る頃、どうやらそれぞれにスタート。力もなく痩せ衰え、朦朧としているオリンは3時間かけ車を走らせる。。どうしても自分でやりたいって聞かない。

すっかり暗くなったハイウエイを挟んで、スカイスクレーパーの夜景がビカビカ光線になって目に刺さってきた。少しも嬉しく無い。全く嬉しくない。なんなのだろう、なんで私たちはこのような辛い時期に引っ越ししてるんだろう、数年前まではトラックで大陸横断を寝ずにやったね。

死ぬときは、アリゾナの灼熱の太陽の真下にボディを転がしてね、あ、ちょっとだけ土は掘ってよ、そしてその中に放してちょうだい。わずか4年半前のことなのに、息を飲む光景そしてひれ伏すより他ない神々しい大自然。オリンと私の真実の大地。それを共有した共通の体験、おそらく、、、来世で巡り合った時、二人が同時に大峡谷の話を始めるんじゃないかってちょっと心がときめく。

〜〜、引っ越したものの、数日経ってもオリンは動けない、ひたすら目を瞑って横たわっている。食欲はゼロ、、卵を散らした味噌汁は美味しいって食べてくれたけど、少量のヨーグルトも残してしまう。マッシュポテト作って、とのリクエストで作ったものの一口がやっと。それでも、病院に戻って点滴で栄養注射を、という応急処置やホスピスにゆこうというのは考えられないらしい。

ふと視線を感じベッドを置いた部屋を見ると、オリンが上半身を起こし私を凝視している。敢えて知らんぷりしてもう一度振り返ると、やはり同じように凝視している。『なあに、おっさん?(おっさん、とか爺や、とかその時の気分で使い分ける。)』オリンは少し微笑んで静かに横たわった。

台所のものが山ほどある。これらだけは少し整頓して、と思ったが、先の見えない新居は虚しい。ほぼ、箱に入れたまま。機材類もコンピューターもこれまではオリンはいち早く取り出してはオーガナイズしていたっけ。コンピューターの完璧な組み立てにほぼ1週間かかる”オタク””超スペシャリスト”。

故に、この彼の静謐な荘厳なマシーンとも思えるコンピューターを復元しようったって最初から無理。ほぼ全てを網羅した貴重な写真やビデオ、書き物も仕事上の請求書も彼自身の音楽ファイルもアートファイルも、迷宮入りのまま私がそれらの詰まった新旧のコンピューターデスクを保管せざるを得ない。持ってきた機材のほとんどは、こちらの友人や知り合いに託すようになるだろう。アリゾナの倉庫に入れたままの大変な量の本やガーデン関係やアート関係の行方も気になっている。オリンの長年の仕事先の人々にも連絡すべきだろう。

のちに、オリンは早苗をニューヨークにきっちり引っ越させたかったんだよ。それがオリンの最後の愛情だったんだよ、と皆に言われた。事実、A.H 氏がこのようにおっしゃった。『最後に僕がオリンと喋った時、彼はすでに自分の命が長くない、と知っていた。でも逝く前にどうしても早苗をブルックリンに引越しさせたい。皆の居るニューヨークに落ち着かせたい。これは僕の最優先事項だ、と。彼は目標を達成した。そしてそれがオリンの本質だった。』

O氏の治療は、2023年2月21日をもって終了。2月25日、O氏は平安な次元に帰ってゆきました。

引っ越しからの4日目、2月21日、スケジュールではキモセラピー。しかし、O氏の黄疸、腹水の増加、激しい消耗などを目の当たりにS君は心が動転している。

結論をサッサと書いてしまおう。さらにうなぎ上りの肝臓値が全てを決定付けた。はい、もう何ら治療する意味は無く、ターゲットセラピーも、むくみの防止薬も、血栓予防薬ももう必要ないです。一切クスリは摂らないように。ホスピスを薦めます。腹腔内の癌は続々育っています。でも、間も無く全てが終盤に至ります。

つまりは、彼らガンさん達そのものも自滅してゆくのに、何をそんなに急いで巣喰いたかったのか? 生存競争?? 笑わせるんじゃないよ、おい!!!!

すでにO氏の衰弱は露わになってきて、ウオーカーで何とか身体を支えての歩み。あれほどスタスタ競歩で肺や呼吸を強化していた頃とはまるで別人の変わり様。ひっそり目を閉じてウーバーで病院に向かう。二人ともそれぞれにわかっていることを、何でまた、体に鞭打って出かけるんだ!

何度でも書かねばならない。先週の13日、O氏は訳わからない不透明とも思える手術を受けさせられた!なんの解決にもならないけれど、でも、一つだけ方法がある。心臓めがけてチューブを入れよう、そして効き目は無いけれど、なんたらキモセラピーをやりましょう。もう、怒り心頭、しかしO氏がお願いします、と従ってしまうのだ!そして翌日の14日、O氏はフラフラで出かけ、バカなキモを身体に入れてしまった。(前回に致命的なダメージを受けたことは書いてある)

しかもです、生きているのが奇跡のようなO氏を待っていました!とばかり、21日に、どでかい穴をお腹に開けられた。これからは自分で腹水を抜くように、だって!!水筒よろしく、ちゃっかり蓋状のものが、血のにじむガーゼの下で喘いでいる。おかしすぎる、おかしすぎる。一体、誰がS君のかけがえのない人を、医療という大義名分でこね回したんだ!!

もう、処置なし。S君はしっかりと聞いた、『先週の話では、O氏はかなり難しい状況になっており、数カ月以内には、、、とのお話でしたよね。先生、私たちはいかなる言葉も先週以来受け入れていますのではっきりおっしゃってください。私の夫の余命はいかほどですか?』

『今日でもおかしくない。長くて、1週間以内ですね』

それからの数日、O氏は率先して人々に自分の長くないこと、仕事も引き受けておりながら途中でストップせざるを得ない謝罪、ひたすら途方もない倦怠感と眠くてたまらない状態がO氏をベッドに貼り付ける。せっかくの引っ越しも、S君はワーワー泣きまくり、空虚感と喪失感が突然踊り出す。O氏などはベッドの上を転がっているのみで、シャワーを浴びることもできず、キッチンで水一杯をグラスに満たすこともできず、高タンパクドリンクを飲む以外、食欲というものが見えない。それさえも吐いてしまうのだけど。ついに引っ越せたんだよ!元気を取り戻そうねー。ウオーカーでも車椅子になっても、どこまでもケアするからさ、海辺も連れてゆくからさ。

最後の余命宣告って言うトリッキーな網にトラップされてしまったのか、抵抗するでもなく、力なく口をパクパクさせて浮かんでいるお魚さん。。秒単位で全てが、決定されてしまったゴールに向かっている。S君は膨大な機材やら何やらを片付けねばならないのだけど、箱を開けては閉じる、の繰り返し。

だって、部屋が少し整った頃は、だあれもいないのよ。すでに冷たい空気だけが充満し始めて来た心の内側をどうやって満たして、どうやって温めるの?でもわかってる。S君で満たしてゆくしかないんだよね? 愛を培う、愛を育てる。

で、22日(水)O氏はのたうち回る息苦しさ、呼吸の困難さ、巻きつかれたような身動きの取れないダルさと痛みの不安から、ホスピスに行きたいと訴え始めた。23日(木)ありがたきお友達に助けられ、救急車でホスピスに向かう、、も、これ以上搬送していると途中で臨終を迎えてしまうとの救命士の判断で、二人の引っ越し先から最短距離の救急病院で降ろされた。

それからの51時間、O氏は取り敢えず点滴、酸素吸入、それに痛み止めを定期的に注入された。S君はギリギリまでありがたいお友達ご夫妻に助けられ、受け答えを間違えたら取り返しのつかなくなる際どい質問に答え、何箇所もサインを書かされた。一切の延命措置は不必要、これは二人共、ずいぶん昔に決めていたことであって何がどう揺れ動こうが決めた事は不文律。

24日(金)これまでも、O氏の闘病はいわば彼の中のトップシークレット。誰にも言わないで、と何回念を押されたことか。故に、当然とはいえ、ことに彼が長年関係している仕事先の方々は、おそらくはのちに驚かれたのではないだろうか、、O氏は大抵の場合、ポーカーフェイスで『オーケー、では、これこれですね、今すぐやりましょう。』などと受け答えていたと見える。全て、これからはS君の責任問題なんだ。いかに説明し、いかに(彼に代わって)謝罪するか。

で、23日のエマージェンシールームからS君は可能な限り、テキストメッセージをスタート。あ〜、あの人、この人、全てのお友達、全てのお世話になっていた・いる人々!時間がない。O氏はすでに病室に移動されたものの、常時酸素マスクに手をやり引き剥がそうとする。文字通り!そうなんだよ、まさに文字通り目が離せない。ラップトップでやらなきゃあなんて時間がない。反射的にベッドから上半身を起こし(もちろん、O氏の両腕は彼自身を支えられず、細かに震えながらどたん!とベッドに倒れるので)言葉のようなものを発し出す。『Oさあああん、おとーさああん、爺やーーー、私だよ、そばにいるよ』カスミかかり瞳孔が開きだしたO氏の眼球は何を感知しているのか。

『爺や』と呼べば『婆や』と答える。そんなふうに二人で楽しくやってきたのに、もう振り返っちゃダメだ。あたしの爺やはもうここに居ない。癌細胞の奴らが、O氏のフリをしてS君を可能な限り困らせている。泣いちゃ駄目だよ、O氏の魂が躊躇してしまってるじゃないか。逝かせてあげなきゃあ。O氏の魂はゆきたいのにS君が困らせている。そこで思いついた言葉『Oちゃん、もう少しとどまって。テキサスからアリゾナから妹たちが来るんだから。あと少し、お願い!』

24日になった。たくさんのお友達や人々からのお悔やみ、病室に駆けつけてくださった皆さん、病院のポリシーで、一般お見舞い客は、一人5分。(これはたくさん来てくれたのでこのようになってしまった)然も、その都度、一人一人が交代で病室に入る。(これは二人部屋なのでもうひとかたに迷惑のかからぬように、との病院側の意向)ホスピスではないのできっかり夜8時には帰っていただく。

ホスピスでなかったのが幸いしたと思う。それぞれ一人一人が、O氏と対面で二人だけの時間を共有できたのできっと、それぞれがそれぞれの思いをO氏に伝えられた。もう、O氏は目も見えず意識もなく言葉かけへの反応も失せてしまって入るけど、何人かのお友達から、O氏の奇跡のような反応を見たよと聞いた。えー?!そうだったの!? 何十回何百回、S君はO氏の耳に口を当てあらゆる思い、感謝の言葉を尽きることなく与えたか。『あんた、ずるいよ!私が先に逝きたかったんだよ。だって、あんたの膨大なやり残しの整頓なんて無理なんだから。』『お化けでもなんでもいいけど怖がらせないでよ』『ありがとね、ありがとね』『言葉じゃないけど、あんたわかってるよね、私が本当に!愛して愛情を捧げた唯一の人なんだからね』

もっと、たくさん。日本語と英語で。おそらくO氏は困ったかなあ、Sチャンが何言ってるのかわかんないよ、でも僕の唯一の人だよっていう声が直に入ってくる。生前、毎日言ってくれたよね、僕の人生の唯一の愛、って。

25日、妹たちが早朝駆けつけた。良かったー、間に合ったね。人の臨終に起きる兆候をステレオタイプのようにS君たちに見せて午後の5時過ぎO氏は旅立った。

   *ここからの行は、ノン・ジャパニーズの方々にフォーマルに知らせたものです。

From 2019 March until now, Just 4 years have left since he got Lung cancer stage 4. During these years to us were as if riding on the swing in the playground. come and go, up and down.

At the same time these 4 years for us were as if our true honeymoon. Mainly, no one around us and no location were able to easily access in Arizona, then, moved to Upstate, says the town of Newburgh, however as you know that Covid-19 immediately spread out and people had to keep distance from others

Again, we had to stay inside the city of Newburgh, it made us every day and every month lived just the two of us. We had been talking more and more about “life & death” “music about any genre” “science ” “art” “infinity” “natural healing” and so on.  

To make a long story short, Orin’s situation suddenly changed in late January. His Dr. gave us “a life expectancy sentence in a few months” it was 13 February. Especially after we finished moving to Brooklyn/NYC, (it was 18 Feb) 21 Feb was his final check up with his Dr. and N.P.  His Dr. noticed that  his remain days are in a week so hurry to go the Hospice, however his body condition was getting worse, 

Well, his emergency situation couldn’t reach the Hospice but an ambulance brought him to our closest Hospital. It was 23 February. I immediately started to let our friends know this fact and beautifully many came to visit him in 24 February, (very sorry because of no more time remain, I couldn’t write to all of our friends)

however the Hospital policy says that just each time only one person can enter his room. It was a good workout for each friend. 

Everyone had enough good times and said goodbye to him in person. Orin had lost consciousness and eyesight already but I strongly believe that his spirit was absolutely healed by friend’s love and blessings.
Orin Buck, my eternal loved one, returned to BIG Oneness calmly and peacefully. It was 25 February, 2023. very sincerely, Sanae M. Buck

R.I.P 合掌

*I’ll write some more post including photos in my blog*

引っ越しの顛末:『ゴドーを待ちながら』を思い出した。

この、長引く引っ越し騒動で一体、私は何を学んでいるのか?再度、この国の成り立ち、その原点に戻らねばならない。大抵の場合、低所得者や移民達 vs 悪どい大家とのいざこざが絶えず、ニューヨーク市はいわば移民や部屋の借り主を守るための移民法(や、テナント法)を作った。弱い立場の人々を保護するためである。

少しずつ時代も変わり、アパートやハウスの借り主(店子)もサバイバルゲームを開始した。同時に、悪どい大家と弱者の店子、というパターンも崩れてきている。弱者のはずの借り主が、部屋やフロアを分割してルームメイトを募るケースも激増し、(これはケースバイケースで、大家が了承すれば問題はさほど生じない)借り主はルームメイトを入れることで自分自身の家賃を浮かせる、または差し引き少額は手に残る、というメリットがある。同様にルームメイト側も、高いレントそのものを払わずとも、キッチンやバス、トイレットは共同で使用するにせよ、自分の空間・ベッドサイズの部屋、をある程度の賃貸料金で確保できるわけなので、どちらにとってもメリットがある。

それでもなお、借り主にとって、毎月のレント・家賃の支払い・場所代は頭痛い。大抵が、家賃のために家賃を払うという(当たり前と思われる?!)義務に支配され、自らの時間を金で換算せねばならない。

ニューヨークの庶民はこんなふうに、いわば、、助け合っている。俯瞰した視座からは、もちろん、持つ者と持たざる者、資本主義やら政治や経済機構のおぞましい階層が見えているけれど。 

話は戻るが、大家であれ、借り主がルームメイトを探すであれ、入居者のバックチェックは重要事案。お金はいくら銀行にあるのか?クレジットカード歴はクリーンか?仕事先や毎月の収入は?加えて、ここに移る前に住んでいたアパートなりなんなりの大家からのコメント、刑事訴訟歴、諸々。

しかしながら、オレオレ詐欺やマルチ商法が今もイーメイルや電話で後を絶たないように、このバックチェックも、確実ではなさそうだ。コロっと騙される。ただ、これも一般的なステレオタイプ思考回路に過ぎず、私たちは心眼を持って、心を開いて、物事の現象の本質をきっちり見極める必要がある。

私自身が今に至るも基本はサバイバー(と、サイボーグ)婆や。安穏とした優雅な日常を送っているわけでないとはいえ、ボチボチやってきている。強制立ち退きは何処でもゴロゴロ起きている、けれど、まさかそれが私たちの引っ越しを妨げている理由だなんて、今回の遅延(と背景)は、全くのところ滑稽すぎるし漫画すぎる。コロナゆえに仕方ない、のじゃなかった。コロナは、この占拠者の甘いお菓子のトッピングに過ぎない。この男は100%のプロフェッショナルなテナント(プロの店子)だったのだから。(既に、”引っ越しの顛末” 前回に書いた)とはいえ、、このようなサバイバーの存在もわからない訳じゃないよね。

私もオリンも、引っ越し先の裁判の結果を待ち、占拠者の強制立ち退きを待ち続けていた。しかしながら、オリンはとうの昔に頭の中を切り替えたものか、片ずけた絵の具やらペーパーやらカンバスを再び広げ、もう、何枚もドローイングを終えている。私は、というと、、、ブツブツ言いながら、箱に入れたミシンや裁縫箱を広げたり出したり閉まったり。シャットダウンしたコンピューターを再び起こしたり。

待っている以上、意識的に無意識的に、”待つ”という状況への期待感、不信感、希望や焦りやら何やら沸き起こり、当然落ち着かない。すると、数日前にこのように思い至った。

”ゴドーを待ちながら” 1954年、フランス人サミュエル・ベケットの戯曲。何かしらの不条理感。私は、私に集中することを忘れてしまっていたんですね。オリンを見習って、私がやるべき事を取り戻さなくては!