O氏の治療歴, そして今これから。その3

引っ越しまでも、間隔を置き、キモとイミュノセラピーを受けるためコンスタントにツーソーンに車を走らせる。もう、何もかもが180度変わってしまった。例えば、”自分は、いついつに禁煙した” ”いついつに断酒した” などとよく聞くし、それはその個人の人生のハイライトでもあると思う。O氏にとってもS君にしても ”自分はいついつに癌の告知を受けた(それから何年たった)”という、数字上の隠されたメッセージがいささか重い。

初めのキモ治療の日程が決まるまで、痩せ衰えてゆくO氏は紙切れのようにヒラヒラと動き、しかもベッドと同じ水平さにまで薄っぺらな身体になったものだから、S君はいつもO氏を見失う、見回してすぐに、”なあんだ、ベッドに横たわってるね” と気がつくが、同時に涙が溢れでる。どうしよう、、引っ越ししかないなあ。

ビスビーではガーデニング仲間やエコロジスト、音楽関係など楽しい人々に出会えておもしろかったし、やっと1年経ったところで、さあて根っこを生やそうかね、との準備段階での再びの引っ越し。けれど、まずはフォーカス。肺がん治療に焦点を合わさなきゃ。その様な理由で2018から2019年に2回の大きな引っ越し移動を行った。野良仕事で使う大きな機械や工具、農具は全て置いてきた。(ああ!今になって必要なんですが!!)

2019年、9月18日にニューヨークのラ・ガーディア空港に到着。そして11月19日に郊外のニューバーグに移るまでのふた月は、ひたすら部屋探し、保険加入やそのリサーチ、病院やドクターなどを探す、コンテナの荷物はニュージャージー州のどこかに放って置かれ、二人の引越し先は未だ決まっておらず、そのため他の倉庫に大荷物の移動を余儀なくされたり、なんだかんだと休む暇なし。その間にも治療が円滑にゆくよう、何度かキモセラピーを受けにO氏はニューヨークとアリゾナのとんぼ返り。

皆には真実、大変お世話になった。言葉では言い尽くせないです。皆、本当に本当に助けてくださった。ありがとうございました、そしてありがとうございます。 〜〜〜〜続く

O氏の治療歴, そして今これから。 その2

ビスビーの診療所や妹たちの勧めもあって、O氏はツーソーンのアリゾナ・オンコロジー にかかることにした。もう一つ、アリゾナ大学病院を選ぶ、という手もあったが一刻も無駄にはできない。さて、O氏の主治医は、かつてO氏実母の主治医でもあった!なんという因縁。O氏のガンは肺のみならず、骨にも肝臓にも脳にも転移しており、全くのところ猶予無しの化学治療スタート、これが2019年6月下旬。さらには免疫療法と併用(免疫治療を受けられることでどれだけありがたかったか、皆に羨ましがられた。ところがこちらが1年のちにその重篤な副作用を発生)。キモセラピー薬は ”アリムタ”、イミュノセラピー薬は ”キトルーダ”。

抗がん剤は時代遅れ?

脳への放射線治療もそうだったが、Xレイも血液検査も、スキャンもMRIも、その度に車を走らせねばならない距離にオフィスが点在しているので、O氏も S君も気が気でない。ツーソーンの大通りは半端ない車の洪水。カーブや出口を間違えると、元に正す時間の損失。いつも時間とにらめっこだった。

食い意地の張る S君は、O氏のキモ治療中、同じ治療室内への差し入れのクッキーだのドーナッツをいただくのが楽しみだった。しかも、オーガニックの厳選されたスイーツもあり、お医者様や看護師さんの『困るね、こんな甘いものを治療室に置かれては、、』という顔を横目に、O氏の隣でスナックタイムをしていましたよ。とても開放的なキモセラピー治療室だったのか(?)広い室内では、幾人もの患者さんがその治療中に家族や連れ合い、お友達と椅子を並べおしゃべりしている家庭的な光景。

さて、主要事案だったO氏の実父もすでに安らかに旅立ち、今は治療のためのみにビスビーに居ることが主になってきた。その頃はすでにビスビーでの農園の諦め、、少しは土を改良したかと思う間も無く、次々のインベーシブプランツ/侵入植物 がモンスーンの合間を縫ってニョキニョキと出現。鉢植えの草木はその強い陽光に根っこまで焼かれてしまう。S君は察する;これはひとえに私の思い上がりなんだ、この砂漠の環境はそれで中庸を保っており、むしろ、私らがこの地の侵入者なんだ。こんなにカラカラに見える土の下は何百という植物の種子が層をなしており、数ヶ月に渡るモンスーン期を心待ちにしている。しかも順番を守りつつ、引き抜かれる植物を待ってました、と即その後に次の植物が芽吹き一瞬のうちに成長する。

見方を変えれば、植物の世界も人間の世界も定住したり移住したり侵食したり、と。これまた現象界の雛形(類似)なのかと思う。

ところで、高額の医療費のことや、遠い距離を車で行き来せねば受けられない治療。これで良いのか、他のがん専門医の意見も聞いてみたい、O氏とS君はあれこれ話し合って引っ越しを決意。

デトロイト、ノースキャロライナ、ニューヨーク、ニューヨーク・アップステイト、と候補を絞るうち二人揃って ”アップステイト” のアイディアがストン!と腑に落ちた。文字通り腑に落ちた(笑)。

それまでにも遠方をヒーラーの方が来てくださったり、お友達にも色々とニューヨーク近郊のアパート状況やら食事療法などの相談をスタート。ビスビーはさすがかつてのビートニクやヒッピーで占められてるんじゃない?と思えるほど、皆、身体の不都合や病には一家言持っており自然治療が盛ん。ところでO氏は最初から化学治療を選んでおり、これが今に至るまでの S君との見解の相違でもある。

O氏はビスビーでの知り合いから勧められた本、その中に登場するケトジェニックダイエットに感化された模様。”まず身体を飢餓状態にして、ガン細胞に栄養を与えない”。これは裏返せば細胞全体も飢餓状態になるわけで、とてもじゃないが良い細胞も弱ってしまい、これではガンとの戦いも回復へのサポートもできなくなる。S君は、その点を言うのだけれど O氏は ”馬耳東風・ばじとうふう” 。最終的に、これでは栄養価も偏ってしまうし、第一、痩せすぎて力尽きて、本人自ら撤回。これは2019年いっぱい続いたね。

今は、副作用も半端ないので休んでるけれど、肺がんステージ4の名称をいただいて以来、O氏のヨガ、ダンベル、速歩または数マイルの散歩、などの運動は続行中。 〜〜〜〜続く

O氏の治療歴, そして今これから。 その1

O氏は飄々とミシガンはアン・アーバー からニューヨークにやってきた。快活で親切、サイエンスフィクションと世界の歴史に傾倒し、コンピューターを駆使してのウエッブサイトやらグラフィックデザイン、ビデオを撮ったり録音したり、アートと音楽関係が仕事。かなり変わっているけれどそれはそれ。

O氏の連れ合いS君は、これまた典型的な風変わり。大胆小心、型破りの減らず口、気前は良いし献身的でもあるし、何よりも荒唐無稽な生き様と、様々な超常体験をO氏は気にいっている。それに、驚くほどの語り部、次々と話が止まらない。S君いわく、脳内で見えている情景をライブ配信のごとく、通訳しているらしい。

二人は2007年以来ずっと一緒にニューヨーク市に住み、2018年の6月、O氏実父の最終介護と実妹の土地の管理で、メキシコボーダー、アリゾナはビスビー に移住。

2019年3月中旬、止まらぬ空咳もそうだが、O氏は胸に痛みを覚えた。少し前に雪の後の凍った庭で滑ってもいたので、肋骨にヒビでも入っているんじゃなかろうか!と大慌て。ビスビー唯一のクリニックにて診察。乾燥砂漠地帯とはいえビスビーは高台に位置し、雨季もあれば雪も降る。

同時期、O氏の実父がその93年の生涯の臨終を迎えており、S君と共にビスビーとツーソーン(アリゾナ第二の都会)を矢継ぎ早に往復。実父の安らかな旅立ちの後も、一向に連絡をよこさないクリニックに此方から出向いて結果を聞きにゆくと、さあ大変!一つには彼らは連絡を怠っていた、しかも検査の結果、ビスビーの小病院では処置が難しいのでツーソーンの医療に至急かかるように、との指示。 何これ? もっと早く知らせてほしかったんですけど〜。

ツーソーンに住むO氏の妹夫婦、ラス・ベガス住まいのO氏の末妹。彼らが居ることでO氏もS君も心強い、とはいえ不慣れな土地での治療に加え、ビスビーとツーソーンの片道は車を走らせてたっぷり2時間。あらゆる検査の経過で病名もコロコロ変わり、そのいずれも二人には嬉しくないものばかりだったけど、最終的に『非小細胞肺がん』という名称をいただく。それが、2019年の6月13日のこと。

今はあまりにもあっけらかんと情報が飛び交い、しかもインターネットである程度は調べがつく。病名や病状も堂々と一人歩きしているし、闘病ユーチューバーや闘病ブログも盛んだ。ドクター顔負けのリサーチや解説、それぞれの日々の過ごし方や気付き、楽しみ方をこちらに知らせてくれる。彼/彼女の死生観は痛々しいほど正直であり感銘を受ける。その深刻な状況や時には過酷な堪え難い辛さをこのように公共に解放し、しかも希望を失わない強さ(素晴らしさ)、これらを目の当たりにS君は立ち上がる。そうだ、挑戦なのだ、勝ち負けの戦争じゃない、自分たちは何かすごいことを与えられたんだ。これはチャレンジなのだ!

〜〜〜〜 続く

O氏の治療歴, そして今これから。はじめに、

オリンが、”肺がんステージ4” という名称を授けられてから丁度3年になる。彼の病名を詳しく学術的に記すなら、”肺腺ガンALK変異陽性・非小細胞肺がん” と呼ぶ。

宣告を受けた3年前のこの日、それまでは特定できず何度か病名が変わってもいたので、”判明しました!これです!” と、きっちり差し出された清々しさ、と同時にそれまでの年月、喧嘩したり笑ったり旅に出たり助け合いながら二人で過ごしてきた日々が、突然その未来を制限されてしまったような理不尽な気持ちになったのを覚えている。

平均4年の余命、というのが定説だそうで、もし私たちが疑いもせず 淡々と『ああ、そうですか』と受け入れて、ひたすら化学治療に委ね一喜一憂しておれば、多分、私のストレスの度合いは少なかったのではないかな。何が起ころうと全て始めから予想もし、何がどうなろうとほぼ受容して諦められる。

私は当初から、できるだけ化学療法に頼らない自然療法を望んでいたが、オリンは待ったなしでキモセラピーを選び、今に至るまでの気の遠くなるあらゆる検査・化学・放射線治療を受け入れている。この3年で何度か危篤になり、そのほとんどの場合がキモ治療による副作用でもあり、副作用を治療する間は本来のキモ治療をストップせねばならない、するとヒソヒソしていたガンがよっしゃ!とばかり暴れ始める。その繰り返し。実のところ、薬が効いているのか、単に発生を抑えているだけなのか見当もつかない。

この3年間、周囲の人々からあらゆる意見や考えを伺った。友達も知り合いも義妹達も親戚も皆それぞれの体験や経験から暖かい、時には私自身を見つめねばならない真摯な意見、誤解も生じたり、それでも本当に心のこもった励ましや様々な情報や介護心得もいただいた。ありがたいです、私もオリンも本当に感謝の気持ちで溢れており、故にことばにならない。そして、、、、この感謝の気持ちが100%これまでの医療関係の皆さん、主治医や診療看護師、全ての皆さんにも向かっている。

希望は、薬の減量 〜 休薬 〜 断薬。私たちのこちらのお友達も色々この方向に向かっている明るいニュースを聞く。この3年で格段に私の料理の手際は上達してきた。味は今ひとつなのだけど、まずは治療食、主に野菜やオートミールやフラクスミールを用いて煮るか、蒸すか、スープにするか。病状や治療の種類によっては避けねばならない食べ物のリストが刻々変わる。(いずれ、これまでの食べ物やサプリメントなどのリストも書いておこうと予定しています。)

、、、このところ急速にオリンの肝臓のダメージがきつく、いっとき肝臓医の診察を仰ぐことになった。その時に、これまでの治療歴が必要、という流れになって、改めてびっしり溜まっている病院関係のプリントやらファイルに目を通しながら、『そうだ、これも何かの縁なのだ。この3年間を私なりにまとめてみよう。おそらくは何も変わらないかもしれない、でも何か気がつくこともあるのではないか?』その衝動で書き始めた。

すでにかなり書き溜めており、当時の私の考えと今現在の考えに矛盾を感じるかもしれないけれど、今の私は変わってしまったようだ。もう、オリン(と彼を取り巻く治療全般)を解放しよう。

オリンの治療を淡々と見守ろう。ニュートラルマインドで居よう。

2022年 6月13日、ニューバーグにて。 バック早苗