皆さんに助けて頂き、オリンの機材・画材・楽器はそれぞれに向かった。オリンも安心しただろうな : With everyone’s help, Orin’s equipments, painting materials, and musical instruments went to their respective places. Orin would be relieved.

何となくなのだけど、あたしが後に残ってこれで良かったんじゃないかと思える。理想は同時に一緒に逝きたかったなあ。まだニューバーグにいた頃、ショッピングに出るより他、オリンは運転すらきつくなっていた。その度に吐いていた。。あゝ、あたしの好きなホンタン(ホンダのタンカラーゆえこのように呼んでいた)に乗って、オリンと3人で消滅っていうか、違う次元に向かいたいなあなどとぼんやり思ったりもしたっけ。

オリンが残ったら、その日からお手上げですよね。もう、コンピューターを組み立てようが、何を食べようが、婆やは居ない。。泣くより辛い孤独。。。何か、オリンの一人取り残された様子を見てしまったかのような錯覚。これでよかったんだ。丸投げされた怒りもあるけど、私は全責任を負う。片っ端から物を処分してゆく(欲しい人にはどんどん譲った、使ってもらえるのが物にとっても一番嬉しい)。

これでオリンの分身が減ってゆき、同時に彼の本当の姿が垣間見て取れる。怖いけど、、、この人には元から実体はなかったのかしらね?この人の細胞の隅々まで、電磁気のようなものの周波数が食い込んでいたんではないかしら? 物、もの、そして物たち、、、と言って肌身離さず抱え込んではいたものの執着とは違う、『物・物質に己を記憶させる』彼はきっと物質界とその波動の中間地点、に位置した霊媒体質じゃなかったか? 多才過ぎたよね、音楽、アート、写真、ビデオ、付随してあらゆる機器を縦横無尽に操作する。。彼のウエッブサイトの中で私の好きなページ  <ーーークリック

ホンタンはすでに安全な場所に移し、買い手を待っている。。オリンは今は異なる次元のトラベラー。あたしは、ニューヨークで泣いている。でも一歩外に出て、メインのフラットブッシュ通りを歩くと違う涙に溢れる。あたしの故郷に戻ってきた。アフリカンアメリカンの古いメッカ、笑っちゃうような舞台衣装を自慢げに並べているショーウインドウ。古い商店街が軒を連ね、いささかキザでレトロなミュージックホールだか、かつては映画館(?)かなあ。遠い昔の喧騒がふっとイメージされる。

ハーレムでも無い、ベドフォード・スタイヴサントのように開発の進みすぎる一帯でもない、忘れられてもいない、ただ見えない郷愁に守られているかのように、邪魔者を優しく拒んでいる。古めかしくもお伽の国とは違う、でもそうとしか形容できない古い景勝の建造物。きっと、この通りをビデオに収めなきゃあ。夏は、一人っきりだけど海にもゆこう。

拍車をかけて片付いてゆく部屋。まるまる空く一部屋はお客さん用と瞑想部屋を兼ねるかな。でもいつまでいるかわからない、もっと身軽にして荷物を処分して、静かに自然の中にゆこうかしら。今、結論は出さない、まず自分を取り戻すのが先決。

2月末から3月半ばの整頓されてない状態です : These pictures are in an unorganized state from the end of February to the middle of March.

All Earth Travelers or/and NYC Trippers. March 19th is Orin’s birthday, equinoctial week, and his Memorial. He was 66 years old. : 皆、地球の旅人 または ニューヨークの旅行者、3月19日はオリンの誕生日、お彼岸生まれ、そして彼のメモリアルでした。享年66。

” Dear everyone, thank you very much for coming to my husband Orin Buck Memorial today. Both Orin and I have been blessed with many warm friendships, and I am especially grateful to everyone who has encouraged and helped me since Orin passed away.

From 2007 to February 2023, life with Orin is as if riding a roller coaster that never stops. It can be said that it is full of ups and downs, we had fought many times. But each time we deepen our understanding, let’s be a team for the rest of our lives, we’ll be together until we die, we made tight commit. Orin always said “You know just you and me, right?”.

Now, after getting off the roller coaster because it suddenly stopped, I can take a bird’s-eye view of how we have traveled these years. Orin tolerated me endlessly. He accepted me unconditionally. We loved each one’ spirit Yes, each moment by moment.

Also I think Orin has served people amazingly in his lifetime. When people are in trouble, he wants to help them. His last words were, ” I wanted to work for people more! “

It was also our desire to return to New York City where music and art mates were waiting for us. Now, Orin, who had left his body and became the pure energy itself, must be happy and playing around freely. When I think about the stress he has been battling with his disease for the last four years, I’m filled with the feeling that I want him to be happy and free forever. (I know he is in the eternal dimension, far from the out of time, space and direction)

Since Orin passed away, something strange happens every day. His personality was also some playful parts, so I’m sure everyone will feel something.

My remarkable memories for example, Orin’s bass when I first met him, headphones that he always used be, his favorite jacket that came from his mother, a drawing of a crow that he knew I love, a sweatshirt that he designed in Michigan period, and a big pants because of his ascites. He immediately picked up suspenders that he always used habitually. I wanted to share these things with you.

Today is also Orin’s birthday. And just start “Higan”. In Japan, we call “Higan” is a Buddhist word and means the world of enlightenment. It is believed that the spirit of dead people can cross the river from the other world to this world. So I’m deeply moved.

Thank you very much. Sincerely yours, 19 March, 2023 Sanae M. Buck “

Orin Buck memorial by Toni Sahara <—– click

引っ越した日のことは書いておきたい。

〜〜, 2023年、2月18日。ニューバーグにはちょうど3年と3ヶ月住んだ。お手伝いくださったFさん、ムーバーのお二方、ニューバーグの大家のAさんと弟のJ さん、不動産業を営むAさんの妹夫妻のEさんとMさん。ブルックリンでの積み下ろしは同じく二人のムーバーさん、手伝ってくれたRさんとその友人のCさん、大家のYさん。我が家の中古車には、オリンのギターとベース、電子ピアノ、プラント、重要書類のバッグ、これらをぎっしり詰め込んで一路、ニューヨークに戻って参りました。ゴムの木トミーや大きくなったアボカド、それこれはニューバーグに置いてきた。半地下に移るので、日の当たる場所に留まってもらう方が彼らには幸いするものね。

オリンは衰弱している身体の置きどころもなく、ムーバーさんたちが運び出す様子を備え付けのキッチンテーブルと、置いてゆく椅子にもたれ黙って見守っている。失礼だけど、ムーバーさんの要領が悪い、、しびれを切らして私も動く。どうも、このムーバーさんの親方が、アシスタントで選んだ人を間違えたものか、結局は親方一人でやり終えたようなもの、、、話が違う、こんなに荷物があるなんて!しかも重いものばっかりじゃ無いか、俺の連れてきた助っ人は仕事できないし、などなど文句の言われっぱなし。

親方の言い値プラス色をつけてお支払い完了。私もオリンも今回はお手上げだったので本当に助かりました。夕暮れ迫る頃、どうやらそれぞれにスタート。力もなく痩せ衰え、朦朧としているオリンは3時間かけ車を走らせる。。どうしても自分でやりたいって聞かない。

すっかり暗くなったハイウエイを挟んで、スカイスクレーパーの夜景がビカビカ光線になって目に刺さってきた。少しも嬉しく無い。全く嬉しくない。なんなのだろう、なんで私たちはこのような辛い時期に引っ越ししてるんだろう、数年前まではトラックで大陸横断を寝ずにやったね。

死ぬときは、アリゾナの灼熱の太陽の真下にボディを転がしてね、あ、ちょっとだけ土は掘ってよ、そしてその中に放してちょうだい。わずか4年半前のことなのに、息を飲む光景そしてひれ伏すより他ない神々しい大自然。オリンと私の真実の大地。それを共有した共通の体験、おそらく、、、来世で巡り合った時、二人が同時に大峡谷の話を始めるんじゃないかってちょっと心がときめく。

〜〜、引っ越したものの、数日経ってもオリンは動けない、ひたすら目を瞑って横たわっている。食欲はゼロ、、卵を散らした味噌汁は美味しいって食べてくれたけど、少量のヨーグルトも残してしまう。マッシュポテト作って、とのリクエストで作ったものの一口がやっと。それでも、病院に戻って点滴で栄養注射を、という応急処置やホスピスにゆこうというのは考えられないらしい。

ふと視線を感じベッドを置いた部屋を見ると、オリンが上半身を起こし私を凝視している。敢えて知らんぷりしてもう一度振り返ると、やはり同じように凝視している。『なあに、おっさん?(おっさん、とか爺や、とかその時の気分で使い分ける。)』オリンは少し微笑んで静かに横たわった。

台所のものが山ほどある。これらだけは少し整頓して、と思ったが、先の見えない新居は虚しい。ほぼ、箱に入れたまま。機材類もコンピューターもこれまではオリンはいち早く取り出してはオーガナイズしていたっけ。コンピューターの完璧な組み立てにほぼ1週間かかる”オタク””超スペシャリスト”。

故に、この彼の静謐な荘厳なマシーンとも思えるコンピューターを復元しようったって最初から無理。ほぼ全てを網羅した貴重な写真やビデオ、書き物も仕事上の請求書も彼自身の音楽ファイルもアートファイルも、迷宮入りのまま私がそれらの詰まった新旧のコンピューターデスクを保管せざるを得ない。持ってきた機材のほとんどは、こちらの友人や知り合いに託すようになるだろう。アリゾナの倉庫に入れたままの大変な量の本やガーデン関係やアート関係の行方も気になっている。オリンの長年の仕事先の人々にも連絡すべきだろう。

のちに、オリンは早苗をニューヨークにきっちり引っ越させたかったんだよ。それがオリンの最後の愛情だったんだよ、と皆に言われた。事実、A.H 氏がこのようにおっしゃった。『最後に僕がオリンと喋った時、彼はすでに自分の命が長くない、と知っていた。でも逝く前にどうしても早苗をブルックリンに引越しさせたい。皆の居るニューヨークに落ち着かせたい。これは僕の最優先事項だ、と。彼は目標を達成した。そしてそれがオリンの本質だった。』

引っ越しの顛末:『ゴドーを待ちながら』を思い出した。

この、長引く引っ越し騒動で一体、私は何を学んでいるのか?再度、この国の成り立ち、その原点に戻らねばならない。大抵の場合、低所得者や移民達 vs 悪どい大家とのいざこざが絶えず、ニューヨーク市はいわば移民や部屋の借り主を守るための移民法(や、テナント法)を作った。弱い立場の人々を保護するためである。

少しずつ時代も変わり、アパートやハウスの借り主(店子)もサバイバルゲームを開始した。同時に、悪どい大家と弱者の店子、というパターンも崩れてきている。弱者のはずの借り主が、部屋やフロアを分割してルームメイトを募るケースも激増し、(これはケースバイケースで、大家が了承すれば問題はさほど生じない)借り主はルームメイトを入れることで自分自身の家賃を浮かせる、または差し引き少額は手に残る、というメリットがある。同様にルームメイト側も、高いレントそのものを払わずとも、キッチンやバス、トイレットは共同で使用するにせよ、自分の空間・ベッドサイズの部屋、をある程度の賃貸料金で確保できるわけなので、どちらにとってもメリットがある。

それでもなお、借り主にとって、毎月のレント・家賃の支払い・場所代は頭痛い。大抵が、家賃のために家賃を払うという(当たり前と思われる?!)義務に支配され、自らの時間を金で換算せねばならない。

ニューヨークの庶民はこんなふうに、いわば、、助け合っている。俯瞰した視座からは、もちろん、持つ者と持たざる者、資本主義やら政治や経済機構のおぞましい階層が見えているけれど。 

話は戻るが、大家であれ、借り主がルームメイトを探すであれ、入居者のバックチェックは重要事案。お金はいくら銀行にあるのか?クレジットカード歴はクリーンか?仕事先や毎月の収入は?加えて、ここに移る前に住んでいたアパートなりなんなりの大家からのコメント、刑事訴訟歴、諸々。

しかしながら、オレオレ詐欺やマルチ商法が今もイーメイルや電話で後を絶たないように、このバックチェックも、確実ではなさそうだ。コロっと騙される。ただ、これも一般的なステレオタイプ思考回路に過ぎず、私たちは心眼を持って、心を開いて、物事の現象の本質をきっちり見極める必要がある。

私自身が今に至るも基本はサバイバー(と、サイボーグ)婆や。安穏とした優雅な日常を送っているわけでないとはいえ、ボチボチやってきている。強制立ち退きは何処でもゴロゴロ起きている、けれど、まさかそれが私たちの引っ越しを妨げている理由だなんて、今回の遅延(と背景)は、全くのところ滑稽すぎるし漫画すぎる。コロナゆえに仕方ない、のじゃなかった。コロナは、この占拠者の甘いお菓子のトッピングに過ぎない。この男は100%のプロフェッショナルなテナント(プロの店子)だったのだから。(既に、”引っ越しの顛末” 前回に書いた)とはいえ、、このようなサバイバーの存在もわからない訳じゃないよね。

私もオリンも、引っ越し先の裁判の結果を待ち、占拠者の強制立ち退きを待ち続けていた。しかしながら、オリンはとうの昔に頭の中を切り替えたものか、片ずけた絵の具やらペーパーやらカンバスを再び広げ、もう、何枚もドローイングを終えている。私は、というと、、、ブツブツ言いながら、箱に入れたミシンや裁縫箱を広げたり出したり閉まったり。シャットダウンしたコンピューターを再び起こしたり。

待っている以上、意識的に無意識的に、”待つ”という状況への期待感、不信感、希望や焦りやら何やら沸き起こり、当然落ち着かない。すると、数日前にこのように思い至った。

”ゴドーを待ちながら” 1954年、フランス人サミュエル・ベケットの戯曲。何かしらの不条理感。私は、私に集中することを忘れてしまっていたんですね。オリンを見習って、私がやるべき事を取り戻さなくては!

引っ越しの顛末:一歩進んで二歩下がる

はい、この大見出しで想像つきましたよね? 1月27日、オリンの手術でニューヨークに出た、その足で、月末に越すフロアの内側を確認に行ったわけ、百聞は一見にしかず。住人が占拠していたのでこれまでは中に入れなかった。

私たちの新しい大家さんのお宅に向かうと、怒涛やらポリスカーやら何やら耳に飛び込んでくる。なんてこっちゃ? 夜逃げしたはずの住人がポリスを二人連れて戻ってきており、”自分はここを引っ越しちゃいない、なぜならこれは強制執行による立ち退きなんかじゃないし、まだマーシャルも来てないんだから。それなのに大家が勝手に入ってしかも俺のものを外に出した、ので俺はこの大家を訴えてやる、大家にペナルティが行くんだから俺はずっと住む権利がある” と。

早い話、20日あたりの深夜、この住人は家具を運び出し、どうなったのか大型犬2匹も、いつの間にやら共に暮らしていた女性も何もかも消失。しかもですね、この男が勝手に変えた鍵が大きく開いた扉の先においてあり、誰が見ても夜逃げ。

突然、それも選りに選って私とオリンが下見に来た夜のほぼ同時刻に舞い戻ったのですね。”俺は、ここを出る、とは言ってない。大家が勝手に思っただけ。マーシャルが来る前に俺をこんな風に閉め出したんだから、大家が全面的に悪い”。

、、恐ろしいことだけれど、この男はいわゆるエビクション(自らが立ち退き状況を作りつつ、居座り続けるという)の、プロフェッショナル・テナント ということが判明したんです。

簡単に説明すれば、プロの借り主・店子と言いますか、少しずつ家賃を滞納しつつ(でもその一部は現金で払う)同時に、大家さんに苦情を伝え始める;水が漏れている、窓が開かない、床がギシギシする、なんであれ。少しずつ、大家さんに非があるかのようにもってゆく。

同様に驚くほど法律というのか、大家側が不利になるための手口を熟知しており、面白いようにそれらを使い出す。最終的に立ち退き勧告が出た場合、わざと夜逃げに見せかけ、鍵を見せびらかすように目立つ場所に置き、部屋を空っぽにして、もちろんドアも大きく開けて。頭を痛め切っていた大家さんの不意をつく。『あ!ついに出てくれた!』と。。。この男の罠にハマったって言う、あれね。まんまと引っかけられた!!!!???

ほぼ10ヶ月のレント未払い + 天井を壊して、大家が俺を壊れた部屋に入れたから怪我した、弁償しろ+ 仕事もして新車も買っている + いつの間にか大型犬2匹、しかも近所で何度も噛み付いてその都度警察沙汰、故に近所中の嫌われ者+ いつの間にか同棲している女性とのいざこざで定期的な警察沙汰、、、

コロナの悪しき影響で、裁判所は非常に滞っている、そのために9月には下りる判決が延期に次ぐ延期。昨年の12月31日、(までは住んでも良い)と最終決定されたものの裁判所がマーシャル(強制立ち退きの執行人)のオーダーを出さない限り、住人はその場所を占拠できる。。でも、過半数のひとは、マーシャルにつまみ出されるまでに引っ越すか出て行くか、自らシェルターに保護願いを出すか、知り合いに助けを求めるか、何かしらの手を打つんだけど。それより何より、通常の流れではマーシャルは期日に合わせてやって来る。どんなに遅くなっても、この1月上旬にはキリがついていたはず。

なので、もう、どのように想像しても、この住人はこうやってこれまでもプロフェッショナルな悪知恵で巧みに渡り歩いてきたんだと思ってしまう。そして、彼なりに今回、大変居心地の良い大家、もしくは場所さらにはコロナという状況、という願ったり叶ったりの幸運に巡り合ったのだろう。。。

また、いわゆる『かまってちゃん』。自分が注目されることに激しい喜びを感じており、悪しきことを繰り返す中でいよいよ注目される、警察にも有名人、それらを快感とする。。。そして、警察の厄介になるたびに大声で泣きわめき、いかに自分が惨めで悪い人間か、わかってる、でもどうしようもないんだ、仕事も学も何もない移民なんだ、と同情を引くハリウッドスター顔負けの演技(だそうな)。

なんだろう、バンパイヤ? またはエナジーサッカー? 気をつけてねー。この占拠者は、こうやって揉め事を作って注目されて、皆の怒りを楽しみに待っている。これらの、こちら側の途方も無い怒りのエネルギーをどんどん吸い取って力を得ている、という流れが見えた。関わるべきじゃ無い。何故、私もオリンもこの状況に甘んじてしまっていたのか? パチッと目が覚めた、むしろ覚醒したっていうのかなあ。

まずは深呼吸、沈思黙考、”ニューヨークに移る・戻る” という状況を再度、問い尋ねなくては。私自身に。場所じゃ無いのは確かなんだね。究極的には、自分=住みか=場所 になるのだろうが。

笑う門には福きたる。ま、コメディなんっすよ、Cクラスのコメディ。なので天に委ねます。この流れで私は何を学んでいるのかな?

引っ越しの顛末:最初の一歩

皆、聞き飽きてしまっているのを承知で、今回の引っ越しの顛末を書き留めておきたい。昨年、2022年の7月下旬(ニューバーグの)大家さんから突然、このビルディングを売りに出すから、と言われ、でも次の買い手(私たちには新しくなる大家さん)はきっと良い人だと思うから貴方達はこのまま住み続ければ良い、と言われた。

ニューバーグに引っ越して直ぐにコロナ騒ぎがスタート。ビーコン駅までのフェリーは運休、ニューバーグ市内からニューヨークまでの大変便利な中距離バスはほぼ運休。昨年からどうやら順調に動き出してはいるものの、バスはこれまでの半分くらいの運行ゆえ、バスの時刻に追われてのとんぼ返り。

なので、これもタイミング、と私たちはその場で引っ越しを決意。ま、病院も仕事もそれぞれの付き合いや趣味や活動のほとんどがニューヨーク市内でもあるし、毎回のバスや電車の運賃・出費を考えれば引っ越すべきだろうな。

ありがたいことに、お友達のお友達がタウンハウスのオーナーで、ちょうどそこの住人(テナント)が出るから、とお話をいただき『渡りに船』。なんてラッキー!有り難や、有り難や。ところが、状況的に今そのテナントの立ち退き判決を待っている、なので恐らくは8月中にはーー、とのことだった、のですが、裁判所はコロナの渦中にあり、因って判決日の延期に次ぐ延期。どうやら、エビクションの日付けが決まったのが9月下旬、それから3ヶ月後の昨年末、12月31日が住人・テナントの立ち退き日になった。

この国は、御多分に洩れず裁判大国ゆえに(?)例えば家や不動産や立ち退きにまつわる裁判だけでも気の遠くなるケースに溢れている。加えて、住人側と大家さん側、ふたつの異なる法律はそれぞれをいかに有利に導くかの決まりがぎっしりある。早い話、テナントが1年近く家賃を払わず、故意に物を壊したり勝手に鍵を変えたり認めていないペットを飼う、警察沙汰の事件を起こした、など、(私たちが移るべきフロアに、今も居座る住人くんなのです)何があっても、大家さんは個人的にその住人と交渉したり追い出せない。

全てを公式にファイルにして裁判所に申請し、そしてそこから裁判が始まる。。このケースは誰の目にも住人の非が認められているとは言え、正式な手続きを経なければ何も進められない、そこにこのコロナの影響で、といういわば負の連鎖が居座る住人くんに幸いしてきたのだろう。

先に書いたけど、裁判ではすでにそのような判決が出ているにも関わらず、住人がそのままそこにいられるのは、実は次のステップがあるためなんです。。2022年12月31日以降は住めないよ、との判決も、もし、その日までに住人が出てゆかない場合、強制執行という処置に向かう。最高裁判所で定められたマーシャル(強制立ち退き執行の権限を持つ)が直接その住人の家なり部屋なりに向かい、有無を言わせずその本人、並びにその住人の付属品全て一括して外に放り出す!

ところがまたしても、、、、、すでにコロナの影響で延期になってきているため、裁判所が、マーシャルに一任する公のオーダーペーパーがまだ発行されていないのか?ロイヤーの元に届いていないため、一体いつになるの?って。裁判所のオーダー無しにはマーシャルといえど動けない。故に強制執行の延期。。。

ここで一つの大きな疑問; よしよし、分かった。でも、5ヶ月以上待っている間になぜオリンも早苗も他を検討しなかったの? いやいや、もちろん探しまくりましたよー、が、もうアップステイトも近郊もいいやって。街中に戻りたい、私にもオリンにとっても第二の故郷なんです。それと、、、オリンの機材は半端じゃないし、どうしても処分しきれないものも多い。でもそれゆえに、オリンは縦横無尽に仕事がさらに可能になるわけですし。これまでもそうだったが、今回もとても良い方が新しい大家さんになる。クッキングやガーデニングやあれこれ共通することもあり、何よりも、私のお友達の長年のお友達、という家族的な安心感もある。これは、特別なご縁であると思っている。