引っ越した日のことは書いておきたい。

〜〜, 2023年、2月18日。ニューバーグにはちょうど3年と3ヶ月住んだ。お手伝いくださったFさん、ムーバーのお二方、ニューバーグの大家のAさんと弟のJ さん、不動産業を営むAさんの妹夫妻のEさんとMさん。ブルックリンでの積み下ろしは同じく二人のムーバーさん、手伝ってくれたRさんとその友人のCさん、大家のYさん。我が家の中古車には、オリンのギターとベース、電子ピアノ、プラント、重要書類のバッグ、これらをぎっしり詰め込んで一路、ニューヨークに戻って参りました。ゴムの木トミーや大きくなったアボカド、それこれはニューバーグに置いてきた。半地下に移るので、日の当たる場所に留まってもらう方が彼らには幸いするものね。

オリンは衰弱している身体の置きどころもなく、ムーバーさんたちが運び出す様子を備え付けのキッチンテーブルと、置いてゆく椅子にもたれ黙って見守っている。失礼だけど、ムーバーさんの要領が悪い、、しびれを切らして私も動く。どうも、このムーバーさんの親方が、アシスタントで選んだ人を間違えたものか、結局は親方一人でやり終えたようなもの、、、話が違う、こんなに荷物があるなんて!しかも重いものばっかりじゃ無いか、俺の連れてきた助っ人は仕事できないし、などなど文句の言われっぱなし。

親方の言い値プラス色をつけてお支払い完了。私もオリンも今回はお手上げだったので本当に助かりました。夕暮れ迫る頃、どうやらそれぞれにスタート。力もなく痩せ衰え、朦朧としているオリンは3時間かけ車を走らせる。。どうしても自分でやりたいって聞かない。

すっかり暗くなったハイウエイを挟んで、スカイスクレーパーの夜景がビカビカ光線になって目に刺さってきた。少しも嬉しく無い。全く嬉しくない。なんなのだろう、なんで私たちはこのような辛い時期に引っ越ししてるんだろう、数年前まではトラックで大陸横断を寝ずにやったね。

死ぬときは、アリゾナの灼熱の太陽の真下にボディを転がしてね、あ、ちょっとだけ土は掘ってよ、そしてその中に放してちょうだい。わずか4年半前のことなのに、息を飲む光景そしてひれ伏すより他ない神々しい大自然。オリンと私の真実の大地。それを共有した共通の体験、おそらく、、、来世で巡り合った時、二人が同時に大峡谷の話を始めるんじゃないかってちょっと心がときめく。

〜〜、引っ越したものの、数日経ってもオリンは動けない、ひたすら目を瞑って横たわっている。食欲はゼロ、、卵を散らした味噌汁は美味しいって食べてくれたけど、少量のヨーグルトも残してしまう。マッシュポテト作って、とのリクエストで作ったものの一口がやっと。それでも、病院に戻って点滴で栄養注射を、という応急処置やホスピスにゆこうというのは考えられないらしい。

ふと視線を感じベッドを置いた部屋を見ると、オリンが上半身を起こし私を凝視している。敢えて知らんぷりしてもう一度振り返ると、やはり同じように凝視している。『なあに、おっさん?(おっさん、とか爺や、とかその時の気分で使い分ける。)』オリンは少し微笑んで静かに横たわった。

台所のものが山ほどある。これらだけは少し整頓して、と思ったが、先の見えない新居は虚しい。ほぼ、箱に入れたまま。機材類もコンピューターもこれまではオリンはいち早く取り出してはオーガナイズしていたっけ。コンピューターの完璧な組み立てにほぼ1週間かかる”オタク””超スペシャリスト”。

故に、この彼の静謐な荘厳なマシーンとも思えるコンピューターを復元しようったって最初から無理。ほぼ全てを網羅した貴重な写真やビデオ、書き物も仕事上の請求書も彼自身の音楽ファイルもアートファイルも、迷宮入りのまま私がそれらの詰まった新旧のコンピューターデスクを保管せざるを得ない。持ってきた機材のほとんどは、こちらの友人や知り合いに託すようになるだろう。アリゾナの倉庫に入れたままの大変な量の本やガーデン関係やアート関係の行方も気になっている。オリンの長年の仕事先の人々にも連絡すべきだろう。

のちに、オリンは早苗をニューヨークにきっちり引っ越させたかったんだよ。それがオリンの最後の愛情だったんだよ、と皆に言われた。事実、A.H 氏がこのようにおっしゃった。『最後に僕がオリンと喋った時、彼はすでに自分の命が長くない、と知っていた。でも逝く前にどうしても早苗をブルックリンに引越しさせたい。皆の居るニューヨークに落ち着かせたい。これは僕の最優先事項だ、と。彼は目標を達成した。そしてそれがオリンの本質だった。』

11th March, 2023.「13th, Anti-Nuke Power Art @ OneTwentyEight : 2023年3月11日、第13回、反原発展を128画廊で開催しました。

On March 11, 2011 our beautiful native country Japan experienced an unprecedented large earthquake, tsunami and nuclear accident. Even now, after twelve years from the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant accident, approximate 34,000 people have not returned yet to their home town. After the nuclear disaster in Fukushima, many people in Japan felt it is our responsibility to make the world aware of the dangers of nuclear power and to lead the world in anti-nuclear power awareness so as not to waste the inconceivable losses we suffered.
 Even after twelve years have passed, it’s still obvious that the situation has not changed at all we can see the government and country are depending on nuclear power. They say that it’s safe for people, but the government, politicians, and related companies are lying. The disaster should have brought us all to an awareness of the safety of nuclear power, but the reality is things are becoming worse and the situation is being hidden from the public. Those with vested interests in nuclear powers plants and the power structure surrounding them point to energy security and the country’s economy. What is evident in the Fukushima disaster is the hoax perpetrated by nuclear related industry, academia and the government in deceiving the people about its safety. The news media has concealed the radioactive damage and the massive release of radioactivity that is becoming increasingly serious. Then the news of them may be erased by the power of politics.
 Many nuclear power plant experts already have issued statements that our primary nuclear power policy was the wrong, since we had enough electricity even without nuclear power, nuclear power is not safe, the cost is highest as compared with other power generation options, and there is extensive damage that eliminates population centers and agricultural land use if an accident happens only once. Many people agreed, but to oppose the nuclear power is still taboo. Even now this subject is considered as taboo in Japan and the U.S. The burden to the later generations including the issue of nuclear waste is not being dealt with responsibly. It is time for all of us to recognize our duty as social beings to protect the life and health of the children we love, and to leave hope for their future.
 The whole world has been manipulated by the rhetoric of “peaceful use of nuclear energy.” Now is the time to pull out from this lie and to use art to bring awareness of the devil of nuclear power.

Anti-Nuke Power Art ©Curated by Keiko Koshimitsu

show images, please click here—–> gallery onetwentyeight
photo by Ayakoh Furukawa-leonart

O氏の治療は、2023年2月21日をもって終了。2月25日、O氏は平安な次元に帰ってゆきました。

引っ越しからの4日目、2月21日、スケジュールではキモセラピー。しかし、O氏の黄疸、腹水の増加、激しい消耗などを目の当たりにS君は心が動転している。

結論をサッサと書いてしまおう。さらにうなぎ上りの肝臓値が全てを決定付けた。はい、もう何ら治療する意味は無く、ターゲットセラピーも、むくみの防止薬も、血栓予防薬ももう必要ないです。一切クスリは摂らないように。ホスピスを薦めます。腹腔内の癌は続々育っています。でも、間も無く全てが終盤に至ります。

つまりは、彼らガンさん達そのものも自滅してゆくのに、何をそんなに急いで巣喰いたかったのか? 生存競争?? 笑わせるんじゃないよ、おい!!!!

すでにO氏の衰弱は露わになってきて、ウオーカーで何とか身体を支えての歩み。あれほどスタスタ競歩で肺や呼吸を強化していた頃とはまるで別人の変わり様。ひっそり目を閉じてウーバーで病院に向かう。二人ともそれぞれにわかっていることを、何でまた、体に鞭打って出かけるんだ!

何度でも書かねばならない。先週の13日、O氏は訳わからない不透明とも思える手術を受けさせられた!なんの解決にもならないけれど、でも、一つだけ方法がある。心臓めがけてチューブを入れよう、そして効き目は無いけれど、なんたらキモセラピーをやりましょう。もう、怒り心頭、しかしO氏がお願いします、と従ってしまうのだ!そして翌日の14日、O氏はフラフラで出かけ、バカなキモを身体に入れてしまった。(前回に致命的なダメージを受けたことは書いてある)

しかもです、生きているのが奇跡のようなO氏を待っていました!とばかり、21日に、どでかい穴をお腹に開けられた。これからは自分で腹水を抜くように、だって!!水筒よろしく、ちゃっかり蓋状のものが、血のにじむガーゼの下で喘いでいる。おかしすぎる、おかしすぎる。一体、誰がS君のかけがえのない人を、医療という大義名分でこね回したんだ!!

もう、処置なし。S君はしっかりと聞いた、『先週の話では、O氏はかなり難しい状況になっており、数カ月以内には、、、とのお話でしたよね。先生、私たちはいかなる言葉も先週以来受け入れていますのではっきりおっしゃってください。私の夫の余命はいかほどですか?』

『今日でもおかしくない。長くて、1週間以内ですね』

それからの数日、O氏は率先して人々に自分の長くないこと、仕事も引き受けておりながら途中でストップせざるを得ない謝罪、ひたすら途方もない倦怠感と眠くてたまらない状態がO氏をベッドに貼り付ける。せっかくの引っ越しも、S君はワーワー泣きまくり、空虚感と喪失感が突然踊り出す。O氏などはベッドの上を転がっているのみで、シャワーを浴びることもできず、キッチンで水一杯をグラスに満たすこともできず、高タンパクドリンクを飲む以外、食欲というものが見えない。それさえも吐いてしまうのだけど。ついに引っ越せたんだよ!元気を取り戻そうねー。ウオーカーでも車椅子になっても、どこまでもケアするからさ、海辺も連れてゆくからさ。

最後の余命宣告って言うトリッキーな網にトラップされてしまったのか、抵抗するでもなく、力なく口をパクパクさせて浮かんでいるお魚さん。。秒単位で全てが、決定されてしまったゴールに向かっている。S君は膨大な機材やら何やらを片付けねばならないのだけど、箱を開けては閉じる、の繰り返し。

だって、部屋が少し整った頃は、だあれもいないのよ。すでに冷たい空気だけが充満し始めて来た心の内側をどうやって満たして、どうやって温めるの?でもわかってる。S君で満たしてゆくしかないんだよね? 愛を培う、愛を育てる。

で、22日(水)O氏はのたうち回る息苦しさ、呼吸の困難さ、巻きつかれたような身動きの取れないダルさと痛みの不安から、ホスピスに行きたいと訴え始めた。23日(木)ありがたきお友達に助けられ、救急車でホスピスに向かう、、も、これ以上搬送していると途中で臨終を迎えてしまうとの救命士の判断で、二人の引っ越し先から最短距離の救急病院で降ろされた。

それからの51時間、O氏は取り敢えず点滴、酸素吸入、それに痛み止めを定期的に注入された。S君はギリギリまでありがたいお友達ご夫妻に助けられ、受け答えを間違えたら取り返しのつかなくなる際どい質問に答え、何箇所もサインを書かされた。一切の延命措置は不必要、これは二人共、ずいぶん昔に決めていたことであって何がどう揺れ動こうが決めた事は不文律。

24日(金)これまでも、O氏の闘病はいわば彼の中のトップシークレット。誰にも言わないで、と何回念を押されたことか。故に、当然とはいえ、ことに彼が長年関係している仕事先の方々は、おそらくはのちに驚かれたのではないだろうか、、O氏は大抵の場合、ポーカーフェイスで『オーケー、では、これこれですね、今すぐやりましょう。』などと受け答えていたと見える。全て、これからはS君の責任問題なんだ。いかに説明し、いかに(彼に代わって)謝罪するか。

で、23日のエマージェンシールームからS君は可能な限り、テキストメッセージをスタート。あ〜、あの人、この人、全てのお友達、全てのお世話になっていた・いる人々!時間がない。O氏はすでに病室に移動されたものの、常時酸素マスクに手をやり引き剥がそうとする。文字通り!そうなんだよ、まさに文字通り目が離せない。ラップトップでやらなきゃあなんて時間がない。反射的にベッドから上半身を起こし(もちろん、O氏の両腕は彼自身を支えられず、細かに震えながらどたん!とベッドに倒れるので)言葉のようなものを発し出す。『Oさあああん、おとーさああん、爺やーーー、私だよ、そばにいるよ』カスミかかり瞳孔が開きだしたO氏の眼球は何を感知しているのか。

『爺や』と呼べば『婆や』と答える。そんなふうに二人で楽しくやってきたのに、もう振り返っちゃダメだ。あたしの爺やはもうここに居ない。癌細胞の奴らが、O氏のフリをしてS君を可能な限り困らせている。泣いちゃ駄目だよ、O氏の魂が躊躇してしまってるじゃないか。逝かせてあげなきゃあ。O氏の魂はゆきたいのにS君が困らせている。そこで思いついた言葉『Oちゃん、もう少しとどまって。テキサスからアリゾナから妹たちが来るんだから。あと少し、お願い!』

24日になった。たくさんのお友達や人々からのお悔やみ、病室に駆けつけてくださった皆さん、病院のポリシーで、一般お見舞い客は、一人5分。(これはたくさん来てくれたのでこのようになってしまった)然も、その都度、一人一人が交代で病室に入る。(これは二人部屋なのでもうひとかたに迷惑のかからぬように、との病院側の意向)ホスピスではないのできっかり夜8時には帰っていただく。

ホスピスでなかったのが幸いしたと思う。それぞれ一人一人が、O氏と対面で二人だけの時間を共有できたのできっと、それぞれがそれぞれの思いをO氏に伝えられた。もう、O氏は目も見えず意識もなく言葉かけへの反応も失せてしまって入るけど、何人かのお友達から、O氏の奇跡のような反応を見たよと聞いた。えー?!そうだったの!? 何十回何百回、S君はO氏の耳に口を当てあらゆる思い、感謝の言葉を尽きることなく与えたか。『あんた、ずるいよ!私が先に逝きたかったんだよ。だって、あんたの膨大なやり残しの整頓なんて無理なんだから。』『お化けでもなんでもいいけど怖がらせないでよ』『ありがとね、ありがとね』『言葉じゃないけど、あんたわかってるよね、私が本当に!愛して愛情を捧げた唯一の人なんだからね』

もっと、たくさん。日本語と英語で。おそらくO氏は困ったかなあ、Sチャンが何言ってるのかわかんないよ、でも僕の唯一の人だよっていう声が直に入ってくる。生前、毎日言ってくれたよね、僕の人生の唯一の愛、って。

25日、妹たちが早朝駆けつけた。良かったー、間に合ったね。人の臨終に起きる兆候をステレオタイプのようにS君たちに見せて午後の5時過ぎO氏は旅立った。

   *ここからの行は、ノン・ジャパニーズの方々にフォーマルに知らせたものです。

From 2019 March until now, Just 4 years have left since he got Lung cancer stage 4. During these years to us were as if riding on the swing in the playground. come and go, up and down.

At the same time these 4 years for us were as if our true honeymoon. Mainly, no one around us and no location were able to easily access in Arizona, then, moved to Upstate, says the town of Newburgh, however as you know that Covid-19 immediately spread out and people had to keep distance from others

Again, we had to stay inside the city of Newburgh, it made us every day and every month lived just the two of us. We had been talking more and more about “life & death” “music about any genre” “science ” “art” “infinity” “natural healing” and so on.  

To make a long story short, Orin’s situation suddenly changed in late January. His Dr. gave us “a life expectancy sentence in a few months” it was 13 February. Especially after we finished moving to Brooklyn/NYC, (it was 18 Feb) 21 Feb was his final check up with his Dr. and N.P.  His Dr. noticed that  his remain days are in a week so hurry to go the Hospice, however his body condition was getting worse, 

Well, his emergency situation couldn’t reach the Hospice but an ambulance brought him to our closest Hospital. It was 23 February. I immediately started to let our friends know this fact and beautifully many came to visit him in 24 February, (very sorry because of no more time remain, I couldn’t write to all of our friends)

however the Hospital policy says that just each time only one person can enter his room. It was a good workout for each friend. 

Everyone had enough good times and said goodbye to him in person. Orin had lost consciousness and eyesight already but I strongly believe that his spirit was absolutely healed by friend’s love and blessings.
Orin Buck, my eternal loved one, returned to BIG Oneness calmly and peacefully. It was 25 February, 2023. very sincerely, Sanae M. Buck

R.I.P 合掌

*I’ll write some more post including photos in my blog*

O氏の治療歴, そして今、 その36

13日の大静脈カテーテル留置、O氏の左腕静脈にはめ込まれ心臓に向かって固定挿入されたこのカテーテルは、つまるところ2月14日からスタートするキモセラピーのため、主治医の止むことなき挑戦と言いましょうか。最後の手段といいますか、データを得るための最終実験なのか? 

13日は、二人ともそれぞれに動転してしまい、ホスピスに向かう(であろう)最終緩和ケアを考慮してください、とも言われたので、14日からスタートの新しいタイプのキモセラピー(ナベルバインまたはヴィモレルバインと呼ぶ)、どこまで効果が見られるのかは未知数ではあるけれど、でも主治医はO氏の同意を得て即スタートという流れであった。名医中の名医といわれるO氏の主治医でもあるし、めまぐるしく様相の変化するO氏の症状に対応し、NP共々その真剣さが感じ取れる。

ナベルバイン、もうちょっと気の利いた名前はなかったのかしら? レストランの片隅に放置されているワインにこのような名前があったような? 

これは、いわゆる一般的なキモセラピーで、13日、O氏の状態で急遽中止したタクソルキモのような、身体への衝撃的強さは持っていないらしい。S君はこの数日でパッキングを終えるため14日はとてもじゃないが一緒に病院にはゆけない。でも、、これまでの大きな引っ越しもなんだかんだで、S君の仕事だったのね(勿論、皆さんに助けていただいたけど)。今回はほぼ引っ越しを諦めていたので、こまこましたものが山積みになっている。S君自身で箱に投げ入れる方が手っ取り早いのだよね。

昨晩からの人参ジュースが良き前兆なのか?O氏のテキストではキモはなんとか終了して色々な検査(?)もクリアしたとのこと。やっと少しは食欲も出てきたのでキモセラピーの合間の昼食に食べて欲しいな、と、サンドイッチ(トマト、サーモン、ウオータークレス、アボカド、半熟卵)を作ってあげた。美味しかった、って。ただ、ビリルビンの数値はさらに上がっており、O氏の可愛い目玉は黄色に変化し、ピンクでしっとりしていた皮膚はすでに黄緑色になっている。

占拠者がすんなり退出したこと、O氏の余命宣告、昨晩、怪しげな機械音で目が覚め、その出どころを探したら目覚し時計だった。バッテリーを入れ替えたんだけど、そうだ、その前にTVモニターのコントローラーがストップ、やはりバッテリーの入れ替え時だった。今日、14日に水漏れが発生。どうも、S君たちの2階のフロア(床下)と1階のテナントさんの天井(裏)の間に設置しているパイプ?に難ありらしくて、早急に2階の床を剥がして点検、水漏れの部分を直さなきゃと言われた。天井裏に水が回ってしまうと取り返しがつかなくなるのは重々承知なんですが。。。あと数日の引っ越しまでのパッキング、引っ越し当日に床は剥がされドアから出れない?!重なり過ぎもいいところ。過渡期でしょうか。全てシンクロしてますな、、。

今日は早、15日の水曜日。頼りになる娘や息子が3〜4人はいる、とイメージしながら、『ママ、ゆっくりしてて良いのよ、あたしら・僕らで十分パッキングやるからさ』『そう?ありがとねー。ママ助かるわ、パパは動けないからね。』こんなふうに想像しながら一人、せっせとパッキングに向かう。

現実は、O氏、またまたおびただしい量の嘔吐。引っ越しまであと数日、どうかO氏が細々でいいからO氏でいて欲しい。

〜〜〜続く、  

O氏の治療, そして今、新たに始まる。その35

2023年、2月13日(月)この日は先週に匹敵する長い1日になった。それも早朝からなのでした。

S君は毎週の日曜日、12時間の介助の仕事をスタートしており、終了時はすでにニューバーグへ戻るバスや電車が無い、それで、夜はそのまま有り難くお泊まりしている。大抵は、翌朝の介護さんの来る9時頃までそのまま仕事先で過ごしていたが、先週からO氏の緊急治療が月曜日になった為、早めに失礼、その足で病院に向かう。

朝の7時過ぎにO氏と病院ロビーで待ち合わせ。そうです、腹腔穿刺の4回目。先月27日は腹水を9リットル抜き、17日間を経た今日は8.5リットル抜いた。腹腔内に水が溜まる速度と、悪性腫瘍がはびこる速度は比例しており、故に肝臓専門医の指摘に沿って、腹水は限りなく抜き続けねばならない。何故なら、栄養たっぷりの腹水で満たされた腹腔にはびこりだしたガンさんたちは、いわばお菓子の家を食べまくるヘンゼルとグレーテル。もちろん、グリム童話の彼らのことではありませんよ。

腹腔内をぐるり一周、食い意地の張るお調子者のガンさんたちは食べ物タプタプに囲まれた安全地帯にいるのだから、面白くて、嬉しくて仕方ない。キモセラピーなんて屁の河童。なので、フェイントをかける。栄養タップンの腹水を即抜いて、タクソルを回してあげるわ。

手術もキモセラピーも、治療の内容でその都度場所が変わる。途中、ヨーグルトや栄養ジュース、チーズラップとサーモンを買った後、次なる病院に向かう。血液検査、その解析。

ところがですね。。。血液検査の結果、肝臓部の数値が末期の様相を超えており、パクリタクセル(あの、化学治療のタクソルね)は中止。主治医曰く、最強のキモセラピーを今から行うことは即ち、”死” を意味すると。肝臓値から判明することは全く希望が見られない。あまりにも弱りきってしまいO氏に施せる治療は何もない。肝臓の全面降伏。そうですね、余命宣告でした。

それと、、、O氏は不可解な手術を受けた。S君的には要領を得なかったし、故に質問ということを控えたのであるが、要するになんら治療法がないにも関わらず、O氏の心臓めがけて大静脈カテーテルというのが左腕から入れられた。何かの検査?いよいよのための痛み止めの注入?次回、しっかり聞かねばならない。

S君の不屈の強さはどこへ行った? O氏のメンタルの方がよほど強い。淡々と状況を受け入れ、S君がこのまま年金を受け取れることやら廃車のこと、ギターのこと、機材のことなどこれらを誰々に託す、など決定が素早過ぎる。ちょっと待ってよ、キャンセルだとか、口座閉鎖だとか、ソシアルメディアをストップするとか支払いの振込だとか、なんだかんだO氏に任せっきりでもあったので、ピーナッツ脳のS君はボーッとしてしまう。

、、、改めて書くけれど、ブルックリンへの引っ越しも突然やってきた。占拠者が立ち退き執行の前に、本当に出て行ってくれた、しかも大家のY氏に、占拠者らしいけどまあ人間らしいテキストを送っている。『俺はもう出てゆきます。鍵も返します。もう、ここには来ません』と。O氏にもS君にも友人たちが近く、主治医にも近く、万が一ホスピスに移っても、何が起きてもニューヨーク市内に移るのは悲願でもあった。O氏は自宅でゆっくり日々を過ごしたいって。好きなようにアートをやってちょうだいね。

病院内はもちろん、路上でも帰りのバスの車中でも、ほぼ終日泣き切ったら、急に笑いが生じるS君。 泣こうが笑おうが、くるくる回る地球に重力で縛られていることに変わりは無いのだよ。なあんだ!こんなシステムに甘んじるから煩悩が生じるんだ。何を弱気になっていたんだろう。戦う前に、もう負けている。今が凄いチャンスなんですよ、処置なしっていうことは、こちらでいかなる治療もダイエットも自由なんです。西洋治療一辺倒のO氏に今、シフトが起きたのですよ。まずはすり下ろしたニンジンジュースを作る。

S君はすでに全面降伏している。完璧に全てを宇宙神と心の中に内在する神に委ねている。このような学びを与えてくださってありがとうございます。それだけ。 

〜〜〜〜〜 続く、

O氏の治療歴, そして今これから。その34

分子標的治療薬のローブレナに耐性が発現したので、それまでの1年7ヶ月はありがとねー、さよならー。で、再びアレセンサよ、こんにちわ。O氏共々よろしくお願いします、という推移に伴って、S君はコンピューターとにらめっこ。この治療薬に関しての作用も副作用も、あらゆるリサーチが嫌になってしまい、(前にも調べていたしなあ)気分を変えて、日本語の闘病ブロッガーさんの中からアレセンサ治療をされている方のブログをいくつか見つけた。

ありがたい。全く!有り難い。これらの生身の肉声とも言える治療中の皆さんの一文字一文字が、数時間かけたリサーチより文献より、的確に、このアレセンサとは何か、アレセンサ治療によってどうなってきているか、を伝えてくれる。

1月29日からの新治療スタートで、2月6日は1週間目の検診。どこまでO氏は血を抜き取られるんだろう、血液検査とはいえ半端な量じゃない。ところでO氏の両足がつる、というのはむくみ防止の薬の副作用というのがわかった。2倍に増やしたし。ので、カリウム(ポタシウム)をしっかり食物から得ること。化学反応っていうことですね。

それと、、、2月4日に肝臓の専門医からのコメントをいただく。すでにこれまでの腹腔穿刺やスキャンでおぼろげながら判明はしていたが、O氏の腹膜一面にガンさんたちが広がっていると。門脈圧亢進でもなければ肝硬変でもない、と。これまでも、疑わしきということで間断なく検査を受け続け、その都度病名やら原因やらも変化しているので、返ってホッとする。絶え間ない嘔吐も倦怠感も、たっぷんたっぷんの腹水もいよいよ痩せてゆくのも、このようにはびこり始めた彼等が大暴れしていたからなのね。わかった。

その理由が、ローブレナに耐性ができ、もはやこの新薬では戦えない、ので、はびこってしまった、のね。わかった。治療法はほぼ見当たらない。多分、あのキモセラピーを再開か?とにかく、お腹に水を溜めないことが重要だそうで、そのためには定期的に抜く手術をする、(回数が増すごとに危険領域に近ずく)或いは、いつでもどこでも溜まって来たら自分自身で抜くために、お腹に穴を開けたままにしてキャップのようなものをはめる。それを外して水抜きをする、って。もっとも、自分で行うため、全責任を自分で負う。失敗やら感染率が一気に高まる。。。

,,, 私たちの身体は途方も無い数量の細胞で形成されている、それら細胞の電気的反応が神経回路を伝って、脳という司令塔にゆくのだけれど、では脳が一番かということでもなく、全てが関連しあって働いている、ので、『私』とか『貴方』という現象も、突き詰めれば、どこの細胞がそのように認識してあたかも、私=自分=存在、と断言できるのか?という究極の疑問が生じてくる ,,,

般若心経を改めて学び始めてきているS君。本当に少しずつなのだけれど、S君とO氏の関係も変わってきている。O氏が主治医を信じて治療を続行、なので邪魔しない。O氏の細胞の化学反応をS君は注意深く見ることと、限りなく治療に効くと思われる食事・料理担当に徹する。これからはしばらく、流動食を中心にする。

二人とも、もう、驚くほど欲がない。でも、つい先日S君はO氏に尋ねた;これだけは絶対やらねばならぬって何かある?この人にはもう一度会いたい、とか、なんでも良いからやり残しのないように、Oちゃんの希望を聞かせて? O氏曰く『ミシガン時代からの作品、ことに線描ドローイング全てをスキャンしてファイルにして、本にまとめたい』って。オーケー、了解。まだまだ二人三脚でやろうねー。いやいや、ひとり二脚になったとしても。。。

補足ながら、2月6日の血液検査の結果は、驚きの水準を跳び越える肝臓値。AST, ALT, はずっと標準内だったのがぐんと高く、ALPに至っては、一昨年の危篤状態の数値を上回っている。 Albumin とBillilbin はかなり減少している。今回の主治医との話し合いは、緊急にMRI で肝臓とその周囲を調べよう、と。故に、病院を移動、待つこと数時間。

2月7日、画像解析の結果を電話で知らされる。肝臓の腫瘍がこぼれ落ちて(?)腹腔に流れ込んだガンさん達より他、致命的症状は見当たらないらしい。懸念されていたO氏の肝臓そのものは変わらずの腫瘍以外は大丈夫。故に、パクリタキセル療法(キモセラピー)に戻る、と提案された。はい、わかりました。ありがとうございます。

〜〜〜〜 続く

引っ越しの顛末:『ゴドーを待ちながら』を思い出した。

この、長引く引っ越し騒動で一体、私は何を学んでいるのか?再度、この国の成り立ち、その原点に戻らねばならない。大抵の場合、低所得者や移民達 vs 悪どい大家とのいざこざが絶えず、ニューヨーク市はいわば移民や部屋の借り主を守るための移民法(や、テナント法)を作った。弱い立場の人々を保護するためである。

少しずつ時代も変わり、アパートやハウスの借り主(店子)もサバイバルゲームを開始した。同時に、悪どい大家と弱者の店子、というパターンも崩れてきている。弱者のはずの借り主が、部屋やフロアを分割してルームメイトを募るケースも激増し、(これはケースバイケースで、大家が了承すれば問題はさほど生じない)借り主はルームメイトを入れることで自分自身の家賃を浮かせる、または差し引き少額は手に残る、というメリットがある。同様にルームメイト側も、高いレントそのものを払わずとも、キッチンやバス、トイレットは共同で使用するにせよ、自分の空間・ベッドサイズの部屋、をある程度の賃貸料金で確保できるわけなので、どちらにとってもメリットがある。

それでもなお、借り主にとって、毎月のレント・家賃の支払い・場所代は頭痛い。大抵が、家賃のために家賃を払うという(当たり前と思われる?!)義務に支配され、自らの時間を金で換算せねばならない。

ニューヨークの庶民はこんなふうに、いわば、、助け合っている。俯瞰した視座からは、もちろん、持つ者と持たざる者、資本主義やら政治や経済機構のおぞましい階層が見えているけれど。 

話は戻るが、大家であれ、借り主がルームメイトを探すであれ、入居者のバックチェックは重要事案。お金はいくら銀行にあるのか?クレジットカード歴はクリーンか?仕事先や毎月の収入は?加えて、ここに移る前に住んでいたアパートなりなんなりの大家からのコメント、刑事訴訟歴、諸々。

しかしながら、オレオレ詐欺やマルチ商法が今もイーメイルや電話で後を絶たないように、このバックチェックも、確実ではなさそうだ。コロっと騙される。ただ、これも一般的なステレオタイプ思考回路に過ぎず、私たちは心眼を持って、心を開いて、物事の現象の本質をきっちり見極める必要がある。

私自身が今に至るも基本はサバイバー(と、サイボーグ)婆や。安穏とした優雅な日常を送っているわけでないとはいえ、ボチボチやってきている。強制立ち退きは何処でもゴロゴロ起きている、けれど、まさかそれが私たちの引っ越しを妨げている理由だなんて、今回の遅延(と背景)は、全くのところ滑稽すぎるし漫画すぎる。コロナゆえに仕方ない、のじゃなかった。コロナは、この占拠者の甘いお菓子のトッピングに過ぎない。この男は100%のプロフェッショナルなテナント(プロの店子)だったのだから。(既に、”引っ越しの顛末” 前回に書いた)とはいえ、、このようなサバイバーの存在もわからない訳じゃないよね。

私もオリンも、引っ越し先の裁判の結果を待ち、占拠者の強制立ち退きを待ち続けていた。しかしながら、オリンはとうの昔に頭の中を切り替えたものか、片ずけた絵の具やらペーパーやらカンバスを再び広げ、もう、何枚もドローイングを終えている。私は、というと、、、ブツブツ言いながら、箱に入れたミシンや裁縫箱を広げたり出したり閉まったり。シャットダウンしたコンピューターを再び起こしたり。

待っている以上、意識的に無意識的に、”待つ”という状況への期待感、不信感、希望や焦りやら何やら沸き起こり、当然落ち着かない。すると、数日前にこのように思い至った。

”ゴドーを待ちながら” 1954年、フランス人サミュエル・ベケットの戯曲。何かしらの不条理感。私は、私に集中することを忘れてしまっていたんですね。オリンを見習って、私がやるべき事を取り戻さなくては!