ホンタ、追突の憂き目に!: Honta, suffering from a rear-end collision !

10月18日(火曜日)、この日はオリンのPETスキャンやMRIに拠る検査の日。しかも、この日の結果で今後の治療方針が決定される。普段は25分歩くのだが今回に限り大事をとって、オリンはニューヨーク行きのバス停まで我がホンタを走らせた。ところが小一時間も経った頃に電話が入り、行きがけに大通りを左折した時に追突された、と。(時遅し、、もっと早く知らせてくれれば追突事故ゆえに当然、ポリスに即レポートせざるを得ない)私への連絡が遅くなった理由は、バスに間に合わねばならなかった点、それと、バスの車内でまずはじめに保険会社に車の破損レポートを送るがため、と。

相手は子供を大急ぎ、学校に送る途中の母親、(色々省略)と。なので、ポリスを呼ぶにはバスの時間が間に合わなくなるとの判断で、オリンはこの母親と子供たちを逃してあげた、と。当然、この母親はポリスにレポートを出していない。

一応は、むち打ち症などの検査をせねばならず、オリンの帰宅を待って、夜遅くに近所の総合病院にゆく。今現在は異常なし。

19日、ニューバーグの警察署に出かけ、全ての証拠と写真を渡しての事情聴取。我がホンタ(このように命名)はいわゆる最低限の保険加入ゆえ一切の修理代がカバーされず、元々が追突事故が発端なので、相手方の保険に委ねるしかない。何日かかるやら。。

オリンは今も変わらず、車社会の批判。ベトナム戦争で亡くなった兵士の数より、1年間の車による事故死は桁違いに多い。とか、癌で死ぬ確率は車の事故より低い、とか。私は、統計というものを字面で語るのは好まない。事故であれ戦争であれ自然死であれ病気であれ、人や生き物への尊厳は、統計で納得させようとするトリックを超えている。

とはいえ、もちろん!腰の置換手術などしなかったら私にも車、は持つ理由もなかったのは事実。

October 18th (Tuesday), was the day of Orin’s PET scan and MRI examination. The results of this day will determine the future treatment policy. He/We usually walk for 25 minutes, but this time, Orin drove our “Honta” to the bus stop for New York City. However, about an hour later, I received a phone call telling me that he had got rear-ended accident while turning left on the main street. (It’s too late, if he let me know earlier, I’ll have to report it to the police immediately) The reason for the delay in contacting me was that he had to be on time for the bus, and that he had to send a damage report to the insurance company first while on the bus.

To make a long story short, the other party were 3, a mother who was in a hurry to send her children to school. So Orin let them escape, deciding that if he called the police, he would miss the bus. Yes, surely, this mother did not submit a report to the police.

Anyway Orin has to be checked for whiplash, etc., so I waited for him to come home and asked him go to a nearby general hospital. He went to the ER late at night. No anomalies since then.

On the 19th, we went to the police station in Newburgh and handed over all the evidence and photographs for questioning. Our “Honta” (named like this) has a minimum insurance coverage, so any repair costs are not covered, and since the accident was originally a rear-end collision, we have no choice but to make a claim to the other party’s insurance. How many days will it take.

Orin is still a criticism of the car society. There are as many car deaths in a year as the total number of soldiers who died in the Vietnam War. Or the odds of dying from cancer are lower than car accidents. I don’t like to put statistics on paper. Whether by accident, war, natural death, or disease, the dignity of people and living things goes beyond the numbers/tricks of statistics to convince them.

But of course! It’s true that if I hadn’t had hip replacement surgery, I wouldn’t have had a reason to own a car.

O氏の治療歴, そして今これから。その29

太陽が沈みかける頃になると、気温はぐんぐん下がってくる。真冬が来たら引っ越しかーー、今回を本当の最後の引越しにしたい。もう、手に負えないので全部を引っ越しのプロに頼む予定。部屋は箱詰めしかかっているものが小山を作っている。やがては一つの山脈になるわね。何時ぞやの引っ越しのまま一度も開けていないものも。時間のある時の箱詰めは気分上々、何となく楽しい。ニューヨーク市内に戻るのも嬉しい。

翌週の10月18日は、O氏のスキャンとMRI。放射能を含むシュガーを飲まされ、身体内部のどこにそのシュガーが付着するかで、生身のがん細胞の行方やら状態を察知するわけ。それと、途方も無い磁石マシーンで脳細胞の腫瘍の様子も見る。前回は大丈夫だったし、定期的な検査は換言すればその都度放射能を浴びている、ことになる。検査とダメージと副作用の負の連鎖、と捉えるか、検査と小康状態と休薬・減薬と祈るか。明るく諦め、淡々と書くだけにしたいS君。

皆、O氏やS君のお友達は素晴らしい、いわば頼りになるお医者さんになってくれるのね。それぞれの体験や経験、知恵も知識もシェアしてくださるし相談にも乗ってくれる。”だから、これこれは良いよ” ”これこれは食べた方が良いよ” ”これこれは回避してストレスも減らして” ”これこれの治療で助かった人がいたよ” ”全ては寿命だよ” ”これこれで楽になったよ” ”生き延びたよ” など数限りなくこれまでもあらゆるありがたい言葉を受け取った。こうした言葉はきっと、目には見えないけど ”愛”のお薬ですね。まずは血流と気の流れに集中。

、、、ただ、、ある女性は、”私は素晴らしい。皆がそう言ってくれる。あらゆる経験と知識がある。私の大切なO氏を救えるのは唯一、私だけ。バカな日本人(S君のこと)にO氏の介護などできるわけない。こんな無能は放っておいて私に任せなさい” という大変、、アレな困った人もいる。ともあれ、全てはS君がこうした現象をどの視座・レベルで把握し、どのような対応をするか、どのみち相手は決して変わらない、のは間違い無いのだからS君自身を変えるべきだ。助かるとか、助けるとか、そうじゃなかろうと、なんであれ、もう大天界に任せてしまおう。

〜〜〜〜〜〜〜 続く

“Tipping Utopia Toward Kazuko Miyamoto” : 中馬芳子さんのパフォーマンスビデオをアップしました。

大盛況だった宮本和子さんの展覧会。その会場でもあったジャパンソサエティの招きで、ダンスの大御所、中馬芳子さんがパフォーマンスを行った。このビデオ編集はとうに終えていたのにも関わらず、こうしてブログにシェアするのが今になってしまった。お時間のおありの時、よろしければ見てくださいね。ありがとうございます。

Kazuko Miyamoto’s exhibition at the Japan Society was a great success. At the invitation of the venue, Yoshiko Chuma, a master of dance, gave a performance. I finished editing this video long ago, but now is the time to share it on my blog. Please take a look if you have time. A video link is below, just click a blue words. 41 min. Thank you very much.

Tipping Utopia Toward Kazuko Miyamoto ← ここをclickしてご覧ください。41分の長さです。

アレコレ:this and that

9月中旬の頃、東京に住むMちゃんがニューヨークに遊びにきて、私たちの住むニューバーグにも足を運んでくれた。彼女がニューヨークでアートやコンピューターを学んでいた頃、私は彼女のルームメイトとして、ブルックリンで数年一緒に過ごした。当時も今も、彼女の芯の通った一貫性は変わらず、加えて実に聞き上手なので、終日私は大はしゃぎしてしまった。

The middle of September, M-chan who lives in Tokyo, was visiting in NYC and also came to visit our Newburgh City. When she studied art & computer programing, I was her roommate and we lived few years together in Brooklyn. From that time to now, her great character of having a consistent core and a good listener personality has not changed at all, I was so excited and talked about many things during this spent a time with her.

こちらは、ごく最近の出来事。なんていうのかしら、あらゆる情報を最小限の言葉で表現する俳句のように、一枚のスナップが全てを語ってくれている、そんな写真やビデオを撮りたいなって思ってきている。

This is a very recent event. I don’t know how to say it, like a haiku that expresses all kinds of information in a minimum of words, I’ve been wanting to take photos and videos where a single snapshot tells everything.

O氏の治療歴;号外号外!皆様ご心配をおかけしました。

アリゾナ以来、S君はずっとO氏の状況を写真に納め、いくつもファイルしている。具合悪い時、元気な時、皆と一緒の時、食べている時、出かけた時、ほぼ網羅している。これは特に意味はない。S君はこんな風にO氏を撮りたいだけなのだ。子孫がいれば、後に、グランマとグランパの写真だよって、子供達が大切にしてくれるかもしれないけど、見渡す限り、二人には親族というもののつながりがない。故にお友達の親族が限りなく羨ましくもあり、ありがたくもある。

先週の慌ただしかった数日の、ちょっとした写真をここに入れたいと思ったS君。何卒、お許しあれ。

9月26日(月)、何時間もずーっと看護師さんが呼びに来るのを待ったのでした。病院の窓外は間断なく救急車が走り回っている

O氏の治療歴, そして今これから。その28

そういえば、付け加えというか、昨日10月4日(火曜日)はO氏の定期検査の日でもあった。もちろん!予定に組み込まれているキモセラピーは中止。その代わりに、先週の生検の結果をドクターから説明していただくのです。しかしながら、今しがた出かけたはずのO氏が駆け込むように戻ってきて(S君は他の用事でO氏と行かなかった)説明もそこそこにトイレに直行。なんでも、ニューヨーク行きのバス停に向かう途中に猛烈な吐き気と腹痛で、(事実、実はよくあるのですが、O氏はいよいよ突然下痢になることが日常化している)とてもじゃないが今日は無理、と。そこでS君、キャンセルのお願いを主治医に伝える。輸血も、100%信頼できるわけでなく、たかだか10日たらずで本来のO氏の身体に限りなくフィットしているのかそうじゃないのか未だにケアフルなところです。

ひとつ嬉しかったのは、肝臓生検の結果を電話ミーティングに切り替えていただき、懸念していた肝硬変では無いこと、腫瘍も大丈夫なこと、ただ、なんだか(肝心なことがS君はわかってない)肝臓に付随する血管が弱って狭くなっており、これらは状況的に、少しずつ普通に戻るだろうから、とのこと。

何度でも言いたいのだけど、O氏のがん細胞は依然としてステイブル、消失したってことはないけど限りなく良い兆候。故に!!鍼灸とかマッサージ、いろいろ代替治療もやりたいよね。

〜〜〜続く

O氏の治療歴, そして今これから。その27・加えて医療ミス・加えて大量の輸血

せっかくの腹腔穿刺も、翌々日には見た目もほぼ同量が戻ってしまった。水枕のようにタップンタップンしているのではないけど、本人はその快適とは言えないお腹の膨らみのため 速歩が難しくなってきている。抜いた腹水そのものの検査の結果は、微量ながらガン細胞が混ざっているらしい。腹水が減ったので再び肝臓生検。早くしないと元の木阿弥。.S君の調べでは生検は危険そのもの。だって外部から、ガンとか炎症部位に器具が入り込んで肝臓なら肝臓の一部を切り取り出すわけです。(検査のためなんだけど)つまり散らばってしまうのよ。

、、、、今現在、2022年9月29日、午後10時28分。

そして、今、10月5日(水曜日)。日が瞬く間に過ぎてゆく。

9月26日、O氏は腹腔穿刺の後、間髪おかずの肝臓生検。危険であり、医療ミスも後を絶たないと言われている、前回は奇跡だったのかも、、、何事もなく。これは、ミス、というよりも超音波で危険の少ない部位を選び、その画像を頼りに器具を入れ肝臓の一部を切り取る。むしろ、ロシアンルーレットかもね。こんなことが最新の医療でもある。

ま、穴の空いたO氏の肝臓から腹腔内に血液ダダ漏れ、大きい4パックの輸血。即、止血の緊急手術。きっちり覚悟をきめたS君。目の前で人が死んでゆくってこういうことね、まずは親しい友人たち、O氏のテキサスに住む妹にテキストを送る。さあて、どうしよう。何も考えられずじっと固まっていた。驚くほど静かな気持ちでもあった。〜〜〜〜、とりあえずは一命をとりとめた、っていう月並みな言葉しか考え付かない。日本と違って、こちらはおそらくは、保険会社との兼ね合い?脈や血圧が戻った時点で即退院(汗)、それが9月29日。

この後に、とんでも無いことが起こり、それは、個人的なブログに書きたいとS君。

〜〜〜〜〜 続く

々から

晴れた日に永遠が見える:On a Clear Day (You Can See Forever)

”晴れた日に〜〜”は、1970年のアメリカのミュージカル・ファンタジー映画タイトル。超能力のある女学生が禁煙したいがため精神科医の催眠療法を受ける、が 催眠の最中、突然彼女は前世を思い出す〜〜、最終的にこの女学生と精神科医は、来世で晴れて一緒に。

本題に入るね。私はある人物(多分、男性)について書こうと思う。この男性は、これまで三回私の夢の中に現れた。とにかくオシャレ、黒のスーツをピシッと決め真っ直ぐにしっかり立っている。よくある山高帽を被って、端正で無表情の顔立ちはどう見ても何かの化身。しかも、何系とか何国人などのヒントも通用しない。精巧なロボットに近いけど、マネキンっぽくもある。といって、宇宙人というのではない。

いつだったか椎間板ヘルニアを患い、身体全く動かせず半立ちで固まってボーっとしていた時の夢うつつ;私は歩けないので飛ぼう、と思いついた。だだっ広いターミナル駅のコンコースの上を飛ぶ。でも私の眼下には人っ子一人いない。明るいコンコースが幅の広い階段に向かった。ふわふわ漂いながら階段を見下ろすとそこにこの ”男” が立っている。飛んでいる私を見上げてにっこり会釈してくれた。。。

そんなに前じゃない、普通の夢に普通に現れた;寂しい薄暗い大地に棺おけ状の箱がザーッと果てなく並べられている。皆、それを一つずつ与えられている。中は概ね、小柄な私が背伸びできて両手も半折りで収まるサイズ。これから私たちはこの中で暮らすんだ、誰かが私の箱の隣に突っ立っている。顔を見るとこの ”男” だった、、、(今思えば、何かの予知夢にも通じる)

とりあえず最後は数年前、ビスビーでの夢; (とは思えない、夢と現実に位置する世界?)暗がりの中、何者かが、私たちの小屋のドアをガタガタさせて侵入寸前!私は大声で、誰だー!とか 止めて〜 とか喚いた! 暗闇の広い敷地の向こうはフェンスで無人の空き地につらなっている。私は追いかける。その侵入者は如何にもこうにも例の ”男” だった。高いフェンスを曲芸師みたいに飛び越えて何処かへ行ってしまった。実際に私とオリンの住んでいたメキシコボーダー、過疎地のビスビーの小屋が そっくりそのまま寸分違わぬ不思議な夢。

〜〜〜、映画を解説させたら並ぶもの無し、私の大好きだった淀川長治氏はいくつもの超常体験をされたらしい。その中で、私の好きなエピソードはこれです。

シニガミ、水先案内人、

『生死半半』(淀川長治)「延命治療について」  昭和四十四年(1969)十二月。夜、激しく咳き込む母の背中をさすっていた時、「私(淀川長治)」の目に、はっきりと死神の姿が見えた。信じてもらえないかもしれないが、部屋の四隅に、鼻先のとがった悪魔みたいな奴らが座っていた。「私」は思わず、「まだ連れて行ったらいけません。もう半年待って」と言った。それからちょうど半年後に、母は死んだ。あの時、「あと五年待って」と頼んでおけば、母はもっと長生きしたかもしれない。 

”若紫”. 神舘美会子 / みたち みえこ

みえこさんと初めてお会いしたのは、確か2012年でしたか。

遡る2011年3月11日、福島の三つ巴(地震・津波・原子力発電所の崩壊)の大災害は記憶に生々しい。被曝や汚染回避のため故郷を離れざるをえなかったたくさんの人々、津波による環境の壊滅的ダメージ、改めてその危険性を知るがゆえに原子力発電所の廃絶を求める声が高まり、2011年以降 ニューヨークのいたるところで沸き起こるデモや集会、その中でみえこさんと出会った。

みえこさんは美術大学卒業後 早くに海を渡り、ニューヨークに落ち着かれて後 テキスタルデザイナーとして第一線で活躍。ご子息の誕生後は、異国で生まれた子供達への語学・情操教育をサポートする私立学校を設立されたり、文字通り 八面六臂の大活躍。

前後するが、知人を通して、彼女の出版した ”Odyssey 遥かなる憧憬 ” という本の話を聞いてもいたし、わたしが訪問介護をしていたご家庭がどうもみえこさんの関係者らしかった、等々、接点がいくつもあったにもかかわらず、わたしがよく顔を出していたダウンタウンの老舗ギャラリー、128画廊でお会いしたことがそれまで一度も無かったのが いささか不思議でもあった。

のちに、この時期は彼女がまさに彼女自身の抱えてきた、そして内奥の忘却の部屋に封印してきた怒りや苦しみを いかに理性と感性で理解し分析し受容し、ついには解放してゆくか、ゆえに ”許し” を実現したか。その年月と被っていたことがわかった。

『 ”ある日突然、狂気の発作が襲って” きてから精神の回復に至る約10年間、素晴らしいサイコセラピストに支えられてきました、その間はほぼあらゆる活動からも アート制作からも 人々との交流からも遠のかざるを得なかった、それどころではなかったんです。間断なく脳内に出現する途方もないイメージに引っ張られまい、と これらのイメージをひたすら言葉に変換してきました。10年に及ぶセラピーの間、毎日、異世界の旅を日記として書いていました。書き続けた55冊に及ぶ大学ノート、ここには私の神話(異世界の旅)が詰まっています。それは私個人の神話です。そして、この体験を通じて、すべての人はそれぞれ固有の神話を持っているということに気付かされました。』

と、お話くださった彼女の、ご自身を取り戻すべく彼女の神話と原型に向かった長い旅の集大成として ”Odyssey 遥かなる憧憬” は出版された。 (この、彼女のギリギリの精神の淵での試みは、のちにユング派の推奨するアクティブイマジネーションの方法そのもので、あとがきを書かれた医学博士;老松克博先生は大変驚かれたそうだ。)

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みえこさんの第一印象は、”虫愛づる姫君” もじって ”言の葉愛づる若紫姫” がぴったりする。型にはまらない、やんちゃな童女が草むらを駆け回って、はらはら降ってくる言の葉・ことのは を追いかけている。いや、そうではなくて、どうも言の葉が彼女の周りに来たがるのかしら。創造の引き合う力。重力と引力とインスピレーション。何故か源氏物語が現前し、黄昏の室内に火を灯すことも忘れて彼女はそれら言の葉を優雅に紡いでいる。

以前、彼女に 『みえこさんは文筆家だし、絵描きであり、彫刻家であり、アクティビストでもあるよね。もし一つだけ肩書きにせねばならないとして、どれが一番貴女にとってふさわしい呼称なのでしょうね?』と尋ねたところ、『私は文章や詩を呼吸するように扱ってきた、社会や世界の不平等、反戦思想は10代に培われた。生活のためデザインもやってきた。けれど私はアーティスト。描いたり創造しているのが好きなのよ』との即答は明るい。天晴れ みえこ! ここにあり。 わたしの心は大喝采。

大人のための童話 “「Magic Toy」 第1話;マリーの冒険” 、一人の日本人男性の国際結婚を伏線に、全編を覆うニューヨーク社会への問題提起 ”プエルトリコの空はいつも青い” などもいずれこのブログにて紹介したいと思っています。

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