ただ、感服:just admiration

オリンの重くて複雑なコンピューター一式を設置していたスチールの棚の行き先は、本当にラッキーなことに E.BさんとM.M氏のカップルが引き取ってくださった。Eさん、彼女の天性の資質は植物(に限らずだけど)を育てることなのだと思う。わたしの母や、オリンの母、ニューバーグの大家さんもそうだったし、オリンだってそうだったのね。良い状況に向かって本当に嬉しい。

Luckily! the steel shelves that Orin had been using with heavy and complex computer system in many years, went to our good friend E & M’ house. Ms.E, I think her natural talent is to grow plants (and not only for the plants ). So did my mother, Orin’s mother, our previous landlady of Newburgh, and so was Orin. I’m really happy that things are going wonderful direction.

photo by Liz

皆さんに助けて頂き、オリンの機材・画材・楽器はそれぞれに向かった。オリンも安心しただろうな : With everyone’s help, Orin’s equipments, painting materials, and musical instruments went to their respective places. Orin would be relieved.

何となくなのだけど、あたしが後に残ってこれで良かったんじゃないかと思える。理想は同時に一緒に逝きたかったなあ。まだニューバーグにいた頃、ショッピングに出るより他、オリンは運転すらきつくなっていた。その度に吐いていた。。あゝ、あたしの好きなホンタン(ホンダのタンカラーゆえこのように呼んでいた)に乗って、オリンと3人で消滅っていうか、違う次元に向かいたいなあなどとぼんやり思ったりもしたっけ。

オリンが残ったら、その日からお手上げですよね。もう、コンピューターを組み立てようが、何を食べようが、婆やは居ない。。泣くより辛い孤独。。。何か、オリンの一人取り残された様子を見てしまったかのような錯覚。これでよかったんだ。丸投げされた怒りもあるけど、私は全責任を負う。片っ端から物を処分してゆく(欲しい人にはどんどん譲った、使ってもらえるのが物にとっても一番嬉しい)。

これでオリンの分身が減ってゆき、同時に彼の本当の姿が垣間見て取れる。怖いけど、、、この人には元から実体はなかったのかしらね?この人の細胞の隅々まで、電磁気のようなものの周波数が食い込んでいたんではないかしら? 物、もの、そして物たち、、、と言って肌身離さず抱え込んではいたものの執着とは違う、『物・物質に己を記憶させる』彼はきっと物質界とその波動の中間地点、に位置した霊媒体質じゃなかったか? 多才過ぎたよね、音楽、アート、写真、ビデオ、付随してあらゆる機器を縦横無尽に操作する。。彼のウエッブサイトの中で私の好きなページ  <ーーークリック

ホンタンはすでに安全な場所に移し、買い手を待っている。。オリンは今は異なる次元のトラベラー。あたしは、ニューヨークで泣いている。でも一歩外に出て、メインのフラットブッシュ通りを歩くと違う涙に溢れる。あたしの故郷に戻ってきた。アフリカンアメリカンの古いメッカ、笑っちゃうような舞台衣装を自慢げに並べているショーウインドウ。古い商店街が軒を連ね、いささかキザでレトロなミュージックホールだか、かつては映画館(?)かなあ。遠い昔の喧騒がふっとイメージされる。

ハーレムでも無い、ベドフォード・スタイヴサントのように開発の進みすぎる一帯でもない、忘れられてもいない、ただ見えない郷愁に守られているかのように、邪魔者を優しく拒んでいる。古めかしくもお伽の国とは違う、でもそうとしか形容できない古い景勝の建造物。きっと、この通りをビデオに収めなきゃあ。夏は、一人っきりだけど海にもゆこう。

拍車をかけて片付いてゆく部屋。まるまる空く一部屋はお客さん用と瞑想部屋を兼ねるかな。でもいつまでいるかわからない、もっと身軽にして荷物を処分して、静かに自然の中にゆこうかしら。今、結論は出さない、まず自分を取り戻すのが先決。

2月末から3月半ばの整頓されてない状態です : These pictures are in an unorganized state from the end of February to the middle of March.

よくある話だけど、オリンにまつわる4つの予知夢、今は私の大好きなエレガントな蜘蛛になってキッチンに居る : As is often the case, four prophetic dreams involving Orin. He is now seems to have turned into a spider and appeared before my eyes in the kitchen.

1、ずいぶん高めのプラットホームのような場所にオリンと居る。何かおしゃべりしてたかな?ひょいと振り返ると彼がいない。大慌てで周りを探し、思わず目を下にやると、なんと!この高みから(恐らくは)転げ落ちたのか、はるか下方、背を丸め動かないオリンを発見した!(驚くのだが、この夢はとても鮮明ではあるけれど、彼が肺がんステージ4の宣告を受けるより何年も前のことであり、目覚めてから一瞬不吉な思いをしたのは事実)

2、二人で真っ暗な道?を歩いている、どこからともなく霧が四方八方から発生し、二人ともどうして良いかわからない、すると、光を放つ古めかしいランタンのようものを掲げた老人が霧の中から現れて、私たちに道しるべをしてくれた。(ユングの説く、老賢者そのもの)とても安心したのを覚えている。(治療中ではあったが、まだ彼が元気だった頃の夢)

3、どっさりの人々が皆、バス?に乗って居る。多分、何かに向かう途中。程なく乗り物は止まり(サービスエリアっぽい)それぞれが外に出たり伸びをしたり。さて再びバス?が出発するのだが、どうしたことかオリンは私たちのバスに乗ろうとしない、私が早く早くと大声をかけても、聞こえているのかいないのか、自分は残る、皆と一緒にゆかないというような?或いは、彼自身どうして良いのかわからない、が、乗る気持ちは無い、といった意思表示をしている。私は、バスから飛び降りて彼を引っ張りたいのだが、どうにもバス・乗り物から降りられず非常に困惑して目が覚めた。(夢の中の彼は、本当に淡々としており、同時に、何で僕はここにいるの?どうしようかなあ〜、といった表情を見せてもいたかな。もちろん、落ち付いていたし周囲をキョロキョロ見てもいた。一言で言えば、彼自身がどの方向にゆくべきか思案していたかのような??)

4、ヒョイっと見ると、前方に、ニコニコ微笑んでいるオリンがいた。いつものお気に入り?の赤いトレーナーを着て明るい表情だった。本当に彼らしく爽やかで、いかにも本物のオリン!と思い、夢の中でもとっても嬉しかった。(これが彼の生前に現れた最後の夢)

ところで、色々な人から”蝶々” の話を聞く。殊に亡くなった方が蝶になって飛び交った、どこからともなく蝶々が舞ってきた、などなど。わたしも”蝶”に関しての実に素晴らしい夢を幼少期に見ており、それは次回記そうと思う。わたしで言えば、彼が旅立って以来、蜘蛛とカラス、樹木や草花、それにあらゆる鳥たちがいつもわたしの周囲にありとても和む。

〜〜、先日、外出から戻って何とは無しにキッチンのコーナーに目が移った。食器を洗うブラシ立ての後ろに、なんと!どう考えても以前、オリンが他界して間も無く見たのと同じ素晴らしくエレガントな蜘蛛(多分、どこにでもいる何ら変哲のないハウス・スパイダーなんだけど)が、ちゃっかりくつろいでいる(微笑)。オリンだ、オリンだ!ありがとね。(その後、この子は私の部屋に向かうちょっとしたコーナーの天井に移動しており、スルスルっと私の足元に降りてきた!!!そっとしてあげたかったのでまだゴタゴタしている玄関際の部屋に連れて行きました。)

わたしはなぜか生まれて以来、蛇と蜘蛛とカラスがとても身近で大好きでならない。ただ一言、可愛いのだ。もちろん、あらゆる生き物を尊敬し大好きなのではあるけど、わたし自身の優先順位に拠れば、どうしたって彼らが先になる。人、或いはミソロジーではシンボリックな意味で彼らを善悪で語るし、加えてロジカルな意味では、巣を張る蜘蛛は女の子なんですが、まあ、それはそれ。

All Earth Travelers or/and NYC Trippers. March 19th is Orin’s birthday, equinoctial week, and his Memorial. He was 66 years old. : 皆、地球の旅人 または ニューヨークの旅行者、3月19日はオリンの誕生日、お彼岸生まれ、そして彼のメモリアルでした。享年66。

” Dear everyone, thank you very much for coming to my husband Orin Buck Memorial today. Both Orin and I have been blessed with many warm friendships, and I am especially grateful to everyone who has encouraged and helped me since Orin passed away.

From 2007 to February 2023, life with Orin is as if riding a roller coaster that never stops. It can be said that it is full of ups and downs, we had fought many times. But each time we deepen our understanding, let’s be a team for the rest of our lives, we’ll be together until we die, we made tight commit. Orin always said “You know just you and me, right?”.

Now, after getting off the roller coaster because it suddenly stopped, I can take a bird’s-eye view of how we have traveled these years. Orin tolerated me endlessly. He accepted me unconditionally. We loved each one’ spirit Yes, each moment by moment.

Also I think Orin has served people amazingly in his lifetime. When people are in trouble, he wants to help them. His last words were, ” I wanted to work for people more! “

It was also our desire to return to New York City where music and art mates were waiting for us. Now, Orin, who had left his body and became the pure energy itself, must be happy and playing around freely. When I think about the stress he has been battling with his disease for the last four years, I’m filled with the feeling that I want him to be happy and free forever. (I know he is in the eternal dimension, far from the out of time, space and direction)

Since Orin passed away, something strange happens every day. His personality was also some playful parts, so I’m sure everyone will feel something.

My remarkable memories for example, Orin’s bass when I first met him, headphones that he always used be, his favorite jacket that came from his mother, a drawing of a crow that he knew I love, a sweatshirt that he designed in Michigan period, and a big pants because of his ascites. He immediately picked up suspenders that he always used habitually. I wanted to share these things with you.

Today is also Orin’s birthday. And just start “Higan”. In Japan, we call “Higan” is a Buddhist word and means the world of enlightenment. It is believed that the spirit of dead people can cross the river from the other world to this world. So I’m deeply moved.

Thank you very much. Sincerely yours, 19 March, 2023 Sanae M. Buck “

Orin Buck memorial by Toni Sahara <—– click

遺灰を受け取った時、”ニューヨークに死す”というフレーズが浮かんだ。巡りめぐって、オリンはあたしとともに戻ってきた:When I received the ashes, the phrase “die in New York” came to my mind. Going round and round, Orin came back here with me

家族以上に親身になってくださるC.Cさんの車で、3月11日、スタッテン島にオリンの遺灰を受け取りに出かけた。前夜は随分と雨が降っていたが、翌朝は曇って冷んやりしているものの雪注意予報も何処へやらありがたき出発。         

出がけのドライブウエイで、お隣の屋根の上に大きなカラスが止まっており、私に向かってカーカーずーっとしゃべっている。ので、あたしもお返事する。はっと気付いた!あたしは、殊にカラスと蜘蛛と蛇がどうしたことか生まれて以来大好き。おととい、寝ぼけてトイレにゆこうと壁に何気なく目をやると、なんとも可愛らしい(多分、冬眠中を起こされたような)ちょいと大きなクモが壁を伝い歩きしていたのね。これって、多分だけれど、オリンがいち早くあたしとコミュニケーション取りたくて、このように見せているんではないかしら?

そうだ、先日、クイーンズに用事があって早く地下鉄に乗ったのに、電気系統の不都合か何かしら発生。で皆一斉に下され、一旦来た方向、つまりはマンハッタンに戻って何何番線に乗り換えてください、とのアナウンス。それを私は何度か行ったり来たりミス往復してしまい(お目当の駅に向かって行くも、地下鉄や私鉄そのものがスケジュールを変えていたり)高架線に変わったクイーンズはロングアイランドシティの町並みを何度も見る羽目に。ちょっと待てよ?

私がオリンと知り合った頃、彼はまさにこのロングアイランドシティにオフィスがあり、眼下の光景は様変わりしているものの懐かしくもあった。いや、やっぱり変だ。どうも、、、オリンが私にウオークインして、私の眼球を使ってこの光景を見てるんではないかしら、という不思議な気持ちになった。

オリンが、直感を与えてくれるミューズに早変わりしちゃったのか?皆に持ってってもらおう、さもなくば捨ててしまおうと決めていたゴチャゴチャの箱の中に、彼の愛用カメラが隠れていたり、わけわからなくなっていたとても重たい三脚類に混ざって、ラップスティール(楽器)をヒョイと見つけたり、ギブアップしていたラジオをひょんな思いつきでリカバー。(つまり、いかに接続させるか、のような)ちゃっかり冷蔵庫の上に置いて見た途端、そうだ!生前のオリンに、『私、台所にラジオを置きたい。なんかノスタルジックで良くない?古いメロディやボーカル、ビッグバンドジャズ聴きながら美味しいもの作りたいんだ』などといったよね。ほら!あたし一人で設営できたじゃない?

号泣と慟哭が発作的にやってくる。私の魂はもうオリンの帰還、3次元じゃないところ、重力の関与せぬ次元、と同時にホログラフィカルな階層に行ってしまったのをわかっているのに、私の頭の中の記憶と日常回路が激しく反応しているんだね。居る・居ない、という相反する現象そのものが私たち3次元界の決まりなのね。物質を伴った生き物がいた・居なくなった、というカラクリに翻弄されるのね。

でも、一緒に居たから学べたし、居なくなったから、それに気付けたのよね。

目前に迫るメモリアルの準備、写真を選ぶことすら明日に伸ばしてしまう。たくさんのありがたきお友達が前日それに当日のお手伝いをしてくださる。あたしは、とてもじゃないがポーカーフェイスを貫けないのはわかっている、から後ろに引っ込んで飲み物担当の婆やをやろうっと。これならメソメソしてもさほど迷惑ではなかろう?

遺灰を1/5 ほどの小分けにして、こちらをメモリアルに持ってゆく。父親譲りの古いドイツ製の大ジョッキに入れてゆく。だってそれが爺やの希望なんだよ。オリンは過度に規則に忠実な部分と、引き継がれる伝統や形式を避ける部分、この二つをきっちり線引きしていた。ので、メモリアルは楽しく自由に来ていただき、笑いと音楽で締めくくりましょうっと。ところで、毎日オリンに『そちら側の様子をおしらせくださいよ』とテレパシーを送っているのだけど具体的な返答を得ていない。『あたしの母にも会ってね、誰それもね、プリンスもだよ。そうだ!あんたのお母さんに会えた?』きっと、苦笑しているのやら身体が無いので電磁波的反応で返しているのやら?毎朝毎晩、般若心経を唱えております。

引っ越した日のことは書いておきたい。

〜〜, 2023年、2月18日。ニューバーグにはちょうど3年と3ヶ月住んだ。お手伝いくださったFさん、ムーバーのお二方、ニューバーグの大家のAさんと弟のJ さん、不動産業を営むAさんの妹夫妻のEさんとMさん。ブルックリンでの積み下ろしは同じく二人のムーバーさん、手伝ってくれたRさんとその友人のCさん、大家のYさん。我が家の中古車には、オリンのギターとベース、電子ピアノ、プラント、重要書類のバッグ、これらをぎっしり詰め込んで一路、ニューヨークに戻って参りました。ゴムの木トミーや大きくなったアボカド、それこれはニューバーグに置いてきた。半地下に移るので、日の当たる場所に留まってもらう方が彼らには幸いするものね。

オリンは衰弱している身体の置きどころもなく、ムーバーさんたちが運び出す様子を備え付けのキッチンテーブルと、置いてゆく椅子にもたれ黙って見守っている。失礼だけど、ムーバーさんの要領が悪い、、しびれを切らして私も動く。どうも、このムーバーさんの親方が、アシスタントで選んだ人を間違えたものか、結局は親方一人でやり終えたようなもの、、、話が違う、こんなに荷物があるなんて!しかも重いものばっかりじゃ無いか、俺の連れてきた助っ人は仕事できないし、などなど文句の言われっぱなし。

親方の言い値プラス色をつけてお支払い完了。私もオリンも今回はお手上げだったので本当に助かりました。夕暮れ迫る頃、どうやらそれぞれにスタート。力もなく痩せ衰え、朦朧としているオリンは3時間かけ車を走らせる。。どうしても自分でやりたいって聞かない。

すっかり暗くなったハイウエイを挟んで、スカイスクレーパーの夜景がビカビカ光線になって目に刺さってきた。少しも嬉しく無い。全く嬉しくない。なんなのだろう、なんで私たちはこのような辛い時期に引っ越ししてるんだろう、数年前まではトラックで大陸横断を寝ずにやったね。

死ぬときは、アリゾナの灼熱の太陽の真下にボディを転がしてね、あ、ちょっとだけ土は掘ってよ、そしてその中に放してちょうだい。わずか4年半前のことなのに、息を飲む光景そしてひれ伏すより他ない神々しい大自然。オリンと私の真実の大地。それを共有した共通の体験、おそらく、、、来世で巡り合った時、二人が同時に大峡谷の話を始めるんじゃないかってちょっと心がときめく。

〜〜、引っ越したものの、数日経ってもオリンは動けない、ひたすら目を瞑って横たわっている。食欲はゼロ、、卵を散らした味噌汁は美味しいって食べてくれたけど、少量のヨーグルトも残してしまう。マッシュポテト作って、とのリクエストで作ったものの一口がやっと。それでも、病院に戻って点滴で栄養注射を、という応急処置やホスピスにゆこうというのは考えられないらしい。

ふと視線を感じベッドを置いた部屋を見ると、オリンが上半身を起こし私を凝視している。敢えて知らんぷりしてもう一度振り返ると、やはり同じように凝視している。『なあに、おっさん?(おっさん、とか爺や、とかその時の気分で使い分ける。)』オリンは少し微笑んで静かに横たわった。

台所のものが山ほどある。これらだけは少し整頓して、と思ったが、先の見えない新居は虚しい。ほぼ、箱に入れたまま。機材類もコンピューターもこれまではオリンはいち早く取り出してはオーガナイズしていたっけ。コンピューターの完璧な組み立てにほぼ1週間かかる”オタク””超スペシャリスト”。

故に、この彼の静謐な荘厳なマシーンとも思えるコンピューターを復元しようったって最初から無理。ほぼ全てを網羅した貴重な写真やビデオ、書き物も仕事上の請求書も彼自身の音楽ファイルもアートファイルも、迷宮入りのまま私がそれらの詰まった新旧のコンピューターデスクを保管せざるを得ない。持ってきた機材のほとんどは、こちらの友人や知り合いに託すようになるだろう。アリゾナの倉庫に入れたままの大変な量の本やガーデン関係やアート関係の行方も気になっている。オリンの長年の仕事先の人々にも連絡すべきだろう。

のちに、オリンは早苗をニューヨークにきっちり引っ越させたかったんだよ。それがオリンの最後の愛情だったんだよ、と皆に言われた。事実、A.H 氏がこのようにおっしゃった。『最後に僕がオリンと喋った時、彼はすでに自分の命が長くない、と知っていた。でも逝く前にどうしても早苗をブルックリンに引越しさせたい。皆の居るニューヨークに落ち着かせたい。これは僕の最優先事項だ、と。彼は目標を達成した。そしてそれがオリンの本質だった。』

11th March, 2023.「13th, Anti-Nuke Power Art @ OneTwentyEight : 2023年3月11日、第13回、反原発展を128画廊で開催しました。

On March 11, 2011 our beautiful native country Japan experienced an unprecedented large earthquake, tsunami and nuclear accident. Even now, after twelve years from the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant accident, approximate 34,000 people have not returned yet to their home town. After the nuclear disaster in Fukushima, many people in Japan felt it is our responsibility to make the world aware of the dangers of nuclear power and to lead the world in anti-nuclear power awareness so as not to waste the inconceivable losses we suffered.
 Even after twelve years have passed, it’s still obvious that the situation has not changed at all we can see the government and country are depending on nuclear power. They say that it’s safe for people, but the government, politicians, and related companies are lying. The disaster should have brought us all to an awareness of the safety of nuclear power, but the reality is things are becoming worse and the situation is being hidden from the public. Those with vested interests in nuclear powers plants and the power structure surrounding them point to energy security and the country’s economy. What is evident in the Fukushima disaster is the hoax perpetrated by nuclear related industry, academia and the government in deceiving the people about its safety. The news media has concealed the radioactive damage and the massive release of radioactivity that is becoming increasingly serious. Then the news of them may be erased by the power of politics.
 Many nuclear power plant experts already have issued statements that our primary nuclear power policy was the wrong, since we had enough electricity even without nuclear power, nuclear power is not safe, the cost is highest as compared with other power generation options, and there is extensive damage that eliminates population centers and agricultural land use if an accident happens only once. Many people agreed, but to oppose the nuclear power is still taboo. Even now this subject is considered as taboo in Japan and the U.S. The burden to the later generations including the issue of nuclear waste is not being dealt with responsibly. It is time for all of us to recognize our duty as social beings to protect the life and health of the children we love, and to leave hope for their future.
 The whole world has been manipulated by the rhetoric of “peaceful use of nuclear energy.” Now is the time to pull out from this lie and to use art to bring awareness of the devil of nuclear power.

Anti-Nuke Power Art ©Curated by Keiko Koshimitsu

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photo by Ayakoh Furukawa-leonart

O氏の治療は、2023年2月21日をもって終了。2月25日、O氏は平安な次元に帰ってゆきました。

引っ越しからの4日目、2月21日、スケジュールではキモセラピー。しかし、O氏の黄疸、腹水の増加、激しい消耗などを目の当たりにS君は心が動転している。

結論をサッサと書いてしまおう。さらにうなぎ上りの肝臓値が全てを決定付けた。はい、もう何ら治療する意味は無く、ターゲットセラピーも、むくみの防止薬も、血栓予防薬ももう必要ないです。一切クスリは摂らないように。ホスピスを薦めます。腹腔内の癌は続々育っています。でも、間も無く全てが終盤に至ります。

つまりは、彼らガンさん達そのものも自滅してゆくのに、何をそんなに急いで巣喰いたかったのか? 生存競争?? 笑わせるんじゃないよ、おい!!!!

すでにO氏の衰弱は露わになってきて、ウオーカーで何とか身体を支えての歩み。あれほどスタスタ競歩で肺や呼吸を強化していた頃とはまるで別人の変わり様。ひっそり目を閉じてウーバーで病院に向かう。二人ともそれぞれにわかっていることを、何でまた、体に鞭打って出かけるんだ!

何度でも書かねばならない。先週の13日、O氏は訳わからない不透明とも思える手術を受けさせられた!なんの解決にもならないけれど、でも、一つだけ方法がある。心臓めがけてチューブを入れよう、そして効き目は無いけれど、なんたらキモセラピーをやりましょう。もう、怒り心頭、しかしO氏がお願いします、と従ってしまうのだ!そして翌日の14日、O氏はフラフラで出かけ、バカなキモを身体に入れてしまった。(前回に致命的なダメージを受けたことは書いてある)

しかもです、生きているのが奇跡のようなO氏を待っていました!とばかり、21日に、どでかい穴をお腹に開けられた。これからは自分で腹水を抜くように、だって!!水筒よろしく、ちゃっかり蓋状のものが、血のにじむガーゼの下で喘いでいる。おかしすぎる、おかしすぎる。一体、誰がS君のかけがえのない人を、医療という大義名分でこね回したんだ!!

もう、処置なし。S君はしっかりと聞いた、『先週の話では、O氏はかなり難しい状況になっており、数カ月以内には、、、とのお話でしたよね。先生、私たちはいかなる言葉も先週以来受け入れていますのではっきりおっしゃってください。私の夫の余命はいかほどですか?』

『今日でもおかしくない。長くて、1週間以内ですね』

それからの数日、O氏は率先して人々に自分の長くないこと、仕事も引き受けておりながら途中でストップせざるを得ない謝罪、ひたすら途方もない倦怠感と眠くてたまらない状態がO氏をベッドに貼り付ける。せっかくの引っ越しも、S君はワーワー泣きまくり、空虚感と喪失感が突然踊り出す。O氏などはベッドの上を転がっているのみで、シャワーを浴びることもできず、キッチンで水一杯をグラスに満たすこともできず、高タンパクドリンクを飲む以外、食欲というものが見えない。それさえも吐いてしまうのだけど。ついに引っ越せたんだよ!元気を取り戻そうねー。ウオーカーでも車椅子になっても、どこまでもケアするからさ、海辺も連れてゆくからさ。

最後の余命宣告って言うトリッキーな網にトラップされてしまったのか、抵抗するでもなく、力なく口をパクパクさせて浮かんでいるお魚さん。。秒単位で全てが、決定されてしまったゴールに向かっている。S君は膨大な機材やら何やらを片付けねばならないのだけど、箱を開けては閉じる、の繰り返し。

だって、部屋が少し整った頃は、だあれもいないのよ。すでに冷たい空気だけが充満し始めて来た心の内側をどうやって満たして、どうやって温めるの?でもわかってる。S君で満たしてゆくしかないんだよね? 愛を培う、愛を育てる。

で、22日(水)O氏はのたうち回る息苦しさ、呼吸の困難さ、巻きつかれたような身動きの取れないダルさと痛みの不安から、ホスピスに行きたいと訴え始めた。23日(木)ありがたきお友達に助けられ、救急車でホスピスに向かう、、も、これ以上搬送していると途中で臨終を迎えてしまうとの救命士の判断で、二人の引っ越し先から最短距離の救急病院で降ろされた。

それからの51時間、O氏は取り敢えず点滴、酸素吸入、それに痛み止めを定期的に注入された。S君はギリギリまでありがたいお友達ご夫妻に助けられ、受け答えを間違えたら取り返しのつかなくなる際どい質問に答え、何箇所もサインを書かされた。一切の延命措置は不必要、これは二人共、ずいぶん昔に決めていたことであって何がどう揺れ動こうが決めた事は不文律。

24日(金)これまでも、O氏の闘病はいわば彼の中のトップシークレット。誰にも言わないで、と何回念を押されたことか。故に、当然とはいえ、ことに彼が長年関係している仕事先の方々は、おそらくはのちに驚かれたのではないだろうか、、O氏は大抵の場合、ポーカーフェイスで『オーケー、では、これこれですね、今すぐやりましょう。』などと受け答えていたと見える。全て、これからはS君の責任問題なんだ。いかに説明し、いかに(彼に代わって)謝罪するか。

で、23日のエマージェンシールームからS君は可能な限り、テキストメッセージをスタート。あ〜、あの人、この人、全てのお友達、全てのお世話になっていた・いる人々!時間がない。O氏はすでに病室に移動されたものの、常時酸素マスクに手をやり引き剥がそうとする。文字通り!そうなんだよ、まさに文字通り目が離せない。ラップトップでやらなきゃあなんて時間がない。反射的にベッドから上半身を起こし(もちろん、O氏の両腕は彼自身を支えられず、細かに震えながらどたん!とベッドに倒れるので)言葉のようなものを発し出す。『Oさあああん、おとーさああん、爺やーーー、私だよ、そばにいるよ』カスミかかり瞳孔が開きだしたO氏の眼球は何を感知しているのか。

『爺や』と呼べば『婆や』と答える。そんなふうに二人で楽しくやってきたのに、もう振り返っちゃダメだ。あたしの爺やはもうここに居ない。癌細胞の奴らが、O氏のフリをしてS君を可能な限り困らせている。泣いちゃ駄目だよ、O氏の魂が躊躇してしまってるじゃないか。逝かせてあげなきゃあ。O氏の魂はゆきたいのにS君が困らせている。そこで思いついた言葉『Oちゃん、もう少しとどまって。テキサスからアリゾナから妹たちが来るんだから。あと少し、お願い!』

24日になった。たくさんのお友達や人々からのお悔やみ、病室に駆けつけてくださった皆さん、病院のポリシーで、一般お見舞い客は、一人5分。(これはたくさん来てくれたのでこのようになってしまった)然も、その都度、一人一人が交代で病室に入る。(これは二人部屋なのでもうひとかたに迷惑のかからぬように、との病院側の意向)ホスピスではないのできっかり夜8時には帰っていただく。

ホスピスでなかったのが幸いしたと思う。それぞれ一人一人が、O氏と対面で二人だけの時間を共有できたのできっと、それぞれがそれぞれの思いをO氏に伝えられた。もう、O氏は目も見えず意識もなく言葉かけへの反応も失せてしまって入るけど、何人かのお友達から、O氏の奇跡のような反応を見たよと聞いた。えー?!そうだったの!? 何十回何百回、S君はO氏の耳に口を当てあらゆる思い、感謝の言葉を尽きることなく与えたか。『あんた、ずるいよ!私が先に逝きたかったんだよ。だって、あんたの膨大なやり残しの整頓なんて無理なんだから。』『お化けでもなんでもいいけど怖がらせないでよ』『ありがとね、ありがとね』『言葉じゃないけど、あんたわかってるよね、私が本当に!愛して愛情を捧げた唯一の人なんだからね』

もっと、たくさん。日本語と英語で。おそらくO氏は困ったかなあ、Sチャンが何言ってるのかわかんないよ、でも僕の唯一の人だよっていう声が直に入ってくる。生前、毎日言ってくれたよね、僕の人生の唯一の愛、って。

25日、妹たちが早朝駆けつけた。良かったー、間に合ったね。人の臨終に起きる兆候をステレオタイプのようにS君たちに見せて午後の5時過ぎO氏は旅立った。

   *ここからの行は、ノン・ジャパニーズの方々にフォーマルに知らせたものです。

From 2019 March until now, Just 4 years have left since he got Lung cancer stage 4. During these years to us were as if riding on the swing in the playground. come and go, up and down.

At the same time these 4 years for us were as if our true honeymoon. Mainly, no one around us and no location were able to easily access in Arizona, then, moved to Upstate, says the town of Newburgh, however as you know that Covid-19 immediately spread out and people had to keep distance from others

Again, we had to stay inside the city of Newburgh, it made us every day and every month lived just the two of us. We had been talking more and more about “life & death” “music about any genre” “science ” “art” “infinity” “natural healing” and so on.  

To make a long story short, Orin’s situation suddenly changed in late January. His Dr. gave us “a life expectancy sentence in a few months” it was 13 February. Especially after we finished moving to Brooklyn/NYC, (it was 18 Feb) 21 Feb was his final check up with his Dr. and N.P.  His Dr. noticed that  his remain days are in a week so hurry to go the Hospice, however his body condition was getting worse, 

Well, his emergency situation couldn’t reach the Hospice but an ambulance brought him to our closest Hospital. It was 23 February. I immediately started to let our friends know this fact and beautifully many came to visit him in 24 February, (very sorry because of no more time remain, I couldn’t write to all of our friends)

however the Hospital policy says that just each time only one person can enter his room. It was a good workout for each friend. 

Everyone had enough good times and said goodbye to him in person. Orin had lost consciousness and eyesight already but I strongly believe that his spirit was absolutely healed by friend’s love and blessings.
Orin Buck, my eternal loved one, returned to BIG Oneness calmly and peacefully. It was 25 February, 2023. very sincerely, Sanae M. Buck

R.I.P 合掌

*I’ll write some more post including photos in my blog*