O氏の治療は、2023年2月21日をもって終了。2月25日、O氏は平安な次元に帰ってゆきました。

引っ越しからの4日目、2月21日、スケジュールではキモセラピー。しかし、O氏の黄疸、腹水の増加、激しい消耗などを目の当たりにS君は心が動転している。

結論をサッサと書いてしまおう。さらにうなぎ上りの肝臓値が全てを決定付けた。はい、もう何ら治療する意味は無く、ターゲットセラピーも、むくみの防止薬も、血栓予防薬ももう必要ないです。一切クスリは摂らないように。ホスピスを薦めます。腹腔内の癌は続々育っています。でも、間も無く全てが終盤に至ります。

つまりは、彼らガンさん達そのものも自滅してゆくのに、何をそんなに急いで巣喰いたかったのか? 生存競争?? 笑わせるんじゃないよ、おい!!!!

すでにO氏の衰弱は露わになってきて、ウオーカーで何とか身体を支えての歩み。あれほどスタスタ競歩で肺や呼吸を強化していた頃とはまるで別人の変わり様。ひっそり目を閉じてウーバーで病院に向かう。二人ともそれぞれにわかっていることを、何でまた、体に鞭打って出かけるんだ!

何度でも書かねばならない。先週の13日、O氏は訳わからない不透明とも思える手術を受けさせられた!なんの解決にもならないけれど、でも、一つだけ方法がある。心臓めがけてチューブを入れよう、そして効き目は無いけれど、なんたらキモセラピーをやりましょう。もう、怒り心頭、しかしO氏がお願いします、と従ってしまうのだ!そして翌日の14日、O氏はフラフラで出かけ、バカなキモを身体に入れてしまった。(前回に致命的なダメージを受けたことは書いてある)

しかもです、生きているのが奇跡のようなO氏を待っていました!とばかり、21日に、どでかい穴をお腹に開けられた。これからは自分で腹水を抜くように、だって!!水筒よろしく、ちゃっかり蓋状のものが、血のにじむガーゼの下で喘いでいる。おかしすぎる、おかしすぎる。一体、誰がS君のかけがえのない人を、医療という大義名分でこね回したんだ!!

もう、処置なし。S君はしっかりと聞いた、『先週の話では、O氏はかなり難しい状況になっており、数カ月以内には、、、とのお話でしたよね。先生、私たちはいかなる言葉も先週以来受け入れていますのではっきりおっしゃってください。私の夫の余命はいかほどですか?』

『今日でもおかしくない。長くて、1週間以内ですね』

それからの数日、O氏は率先して人々に自分の長くないこと、仕事も引き受けておりながら途中でストップせざるを得ない謝罪、ひたすら途方もない倦怠感と眠くてたまらない状態がO氏をベッドに貼り付ける。せっかくの引っ越しも、S君はワーワー泣きまくり、空虚感と喪失感が突然踊り出す。O氏などはベッドの上を転がっているのみで、シャワーを浴びることもできず、キッチンで水一杯をグラスに満たすこともできず、高タンパクドリンクを飲む以外、食欲というものが見えない。それさえも吐いてしまうのだけど。ついに引っ越せたんだよ!元気を取り戻そうねー。ウオーカーでも車椅子になっても、どこまでもケアするからさ、海辺も連れてゆくからさ。

最後の余命宣告って言うトリッキーな網にトラップされてしまったのか、抵抗するでもなく、力なく口をパクパクさせて浮かんでいるお魚さん。。秒単位で全てが、決定されてしまったゴールに向かっている。S君は膨大な機材やら何やらを片付けねばならないのだけど、箱を開けては閉じる、の繰り返し。

だって、部屋が少し整った頃は、だあれもいないのよ。すでに冷たい空気だけが充満し始めて来た心の内側をどうやって満たして、どうやって温めるの?でもわかってる。S君で満たしてゆくしかないんだよね? 愛を培う、愛を育てる。

で、22日(水)O氏はのたうち回る息苦しさ、呼吸の困難さ、巻きつかれたような身動きの取れないダルさと痛みの不安から、ホスピスに行きたいと訴え始めた。23日(木)ありがたきお友達に助けられ、救急車でホスピスに向かう、、も、これ以上搬送していると途中で臨終を迎えてしまうとの救命士の判断で、二人の引っ越し先から最短距離の救急病院で降ろされた。

それからの51時間、O氏は取り敢えず点滴、酸素吸入、それに痛み止めを定期的に注入された。S君はギリギリまでありがたいお友達ご夫妻に助けられ、受け答えを間違えたら取り返しのつかなくなる際どい質問に答え、何箇所もサインを書かされた。一切の延命措置は不必要、これは二人共、ずいぶん昔に決めていたことであって何がどう揺れ動こうが決めた事は不文律。

24日(金)これまでも、O氏の闘病はいわば彼の中のトップシークレット。誰にも言わないで、と何回念を押されたことか。故に、当然とはいえ、ことに彼が長年関係している仕事先の方々は、おそらくはのちに驚かれたのではないだろうか、、O氏は大抵の場合、ポーカーフェイスで『オーケー、では、これこれですね、今すぐやりましょう。』などと受け答えていたと見える。全て、これからはS君の責任問題なんだ。いかに説明し、いかに(彼に代わって)謝罪するか。

で、23日のエマージェンシールームからS君は可能な限り、テキストメッセージをスタート。あ〜、あの人、この人、全てのお友達、全てのお世話になっていた・いる人々!時間がない。O氏はすでに病室に移動されたものの、常時酸素マスクに手をやり引き剥がそうとする。文字通り!そうなんだよ、まさに文字通り目が離せない。ラップトップでやらなきゃあなんて時間がない。反射的にベッドから上半身を起こし(もちろん、O氏の両腕は彼自身を支えられず、細かに震えながらどたん!とベッドに倒れるので)言葉のようなものを発し出す。『Oさあああん、おとーさああん、爺やーーー、私だよ、そばにいるよ』カスミかかり瞳孔が開きだしたO氏の眼球は何を感知しているのか。

『爺や』と呼べば『婆や』と答える。そんなふうに二人で楽しくやってきたのに、もう振り返っちゃダメだ。あたしの爺やはもうここに居ない。癌細胞の奴らが、O氏のフリをしてS君を可能な限り困らせている。泣いちゃ駄目だよ、O氏の魂が躊躇してしまってるじゃないか。逝かせてあげなきゃあ。O氏の魂はゆきたいのにS君が困らせている。そこで思いついた言葉『Oちゃん、もう少しとどまって。テキサスからアリゾナから妹たちが来るんだから。あと少し、お願い!』

24日になった。たくさんのお友達や人々からのお悔やみ、病室に駆けつけてくださった皆さん、病院のポリシーで、一般お見舞い客は、一人5分。(これはたくさん来てくれたのでこのようになってしまった)然も、その都度、一人一人が交代で病室に入る。(これは二人部屋なのでもうひとかたに迷惑のかからぬように、との病院側の意向)ホスピスではないのできっかり夜8時には帰っていただく。

ホスピスでなかったのが幸いしたと思う。それぞれ一人一人が、O氏と対面で二人だけの時間を共有できたのできっと、それぞれがそれぞれの思いをO氏に伝えられた。もう、O氏は目も見えず意識もなく言葉かけへの反応も失せてしまって入るけど、何人かのお友達から、O氏の奇跡のような反応を見たよと聞いた。えー?!そうだったの!? 何十回何百回、S君はO氏の耳に口を当てあらゆる思い、感謝の言葉を尽きることなく与えたか。『あんた、ずるいよ!私が先に逝きたかったんだよ。だって、あんたの膨大なやり残しの整頓なんて無理なんだから。』『お化けでもなんでもいいけど怖がらせないでよ』『ありがとね、ありがとね』『言葉じゃないけど、あんたわかってるよね、私が本当に!愛して愛情を捧げた唯一の人なんだからね』

もっと、たくさん。日本語と英語で。おそらくO氏は困ったかなあ、Sチャンが何言ってるのかわかんないよ、でも僕の唯一の人だよっていう声が直に入ってくる。生前、毎日言ってくれたよね、僕の人生の唯一の愛、って。

25日、妹たちが早朝駆けつけた。良かったー、間に合ったね。人の臨終に起きる兆候をステレオタイプのようにS君たちに見せて午後の5時過ぎO氏は旅立った。

   *ここからの行は、ノン・ジャパニーズの方々にフォーマルに知らせたものです。

From 2019 March until now, Just 4 years have left since he got Lung cancer stage 4. During these years to us were as if riding on the swing in the playground. come and go, up and down.

At the same time these 4 years for us were as if our true honeymoon. Mainly, no one around us and no location were able to easily access in Arizona, then, moved to Upstate, says the town of Newburgh, however as you know that Covid-19 immediately spread out and people had to keep distance from others

Again, we had to stay inside the city of Newburgh, it made us every day and every month lived just the two of us. We had been talking more and more about “life & death” “music about any genre” “science ” “art” “infinity” “natural healing” and so on.  

To make a long story short, Orin’s situation suddenly changed in late January. His Dr. gave us “a life expectancy sentence in a few months” it was 13 February. Especially after we finished moving to Brooklyn/NYC, (it was 18 Feb) 21 Feb was his final check up with his Dr. and N.P.  His Dr. noticed that  his remain days are in a week so hurry to go the Hospice, however his body condition was getting worse, 

Well, his emergency situation couldn’t reach the Hospice but an ambulance brought him to our closest Hospital. It was 23 February. I immediately started to let our friends know this fact and beautifully many came to visit him in 24 February, (very sorry because of no more time remain, I couldn’t write to all of our friends)

however the Hospital policy says that just each time only one person can enter his room. It was a good workout for each friend. 

Everyone had enough good times and said goodbye to him in person. Orin had lost consciousness and eyesight already but I strongly believe that his spirit was absolutely healed by friend’s love and blessings.
Orin Buck, my eternal loved one, returned to BIG Oneness calmly and peacefully. It was 25 February, 2023. very sincerely, Sanae M. Buck

R.I.P 合掌

*I’ll write some more post including photos in my blog*