O氏の治療歴, そして今これから。 その1

O氏は飄々とミシガンはアン・アーバー からニューヨークにやってきた。快活で親切、サイエンスフィクションと世界の歴史に傾倒し、コンピューターを駆使してのウエッブサイトやらグラフィックデザイン、ビデオを撮ったり録音したり、アートと音楽関係が仕事。かなり変わっているけれどそれはそれ。

O氏の連れ合いS君は、これまた典型的な風変わり。大胆小心、型破りの減らず口、気前は良いし献身的でもあるし、何よりも荒唐無稽な生き様と、様々な超常体験をO氏は気にいっている。それに、驚くほどの語り部、次々と話が止まらない。S君いわく、脳内で見えている情景をライブ配信のごとく、通訳しているらしい。

二人は2007年以来ずっと一緒にニューヨーク市に住み、2018年の6月、O氏実父の最終介護と実妹の土地の管理で、メキシコボーダー、アリゾナはビスビー に移住。

2019年3月中旬、止まらぬ空咳もそうだが、O氏は胸に痛みを覚えた。少し前に雪の後の凍った庭で滑ってもいたので、肋骨にヒビでも入っているんじゃなかろうか!と大慌て。ビスビー唯一のクリニックにて診察。乾燥砂漠地帯とはいえビスビーは高台に位置し、雨季もあれば雪も降る。

同時期、O氏の実父がその93年の生涯の臨終を迎えており、S君と共にビスビーとツーソーン(アリゾナ第二の都会)を矢継ぎ早に往復。実父の安らかな旅立ちの後も、一向に連絡をよこさないクリニックに此方から出向いて結果を聞きにゆくと、さあ大変!一つには彼らは連絡を怠っていた、しかも検査の結果、ビスビーの小病院では処置が難しいのでツーソーンの医療に至急かかるように、との指示。 何これ? もっと早く知らせてほしかったんですけど〜。

ツーソーンに住むO氏の妹夫婦、ラス・ベガス住まいのO氏の末妹。彼らが居ることでO氏もS君も心強い、とはいえ不慣れな土地での治療に加え、ビスビーとツーソーンの片道は車を走らせてたっぷり2時間。あらゆる検査の経過で病名もコロコロ変わり、そのいずれも二人には嬉しくないものばかりだったけど、最終的に『非小細胞肺がん』という名称をいただく。それが、2019年の6月13日のこと。

今はあまりにもあっけらかんと情報が飛び交い、しかもインターネットである程度は調べがつく。病名や病状も堂々と一人歩きしているし、闘病ユーチューバーや闘病ブログも盛んだ。ドクター顔負けのリサーチや解説、それぞれの日々の過ごし方や気付き、楽しみ方をこちらに知らせてくれる。彼/彼女の死生観は痛々しいほど正直であり感銘を受ける。その深刻な状況や時には過酷な堪え難い辛さをこのように公共に解放し、しかも希望を失わない強さ(素晴らしさ)、これらを目の当たりにS君は立ち上がる。そうだ、挑戦なのだ、勝ち負けの戦争じゃない、自分たちは何かすごいことを与えられたんだ。これはチャレンジなのだ!

〜〜〜〜 続く